2016年12月11日

安岡正篤「活学一日一言」、中村天風「一日一話」。

   12月11日(日)  素心規



 一、禍が福か、福が禍か、人間の私心でわかるものではない。長い目で見て、正義
を守り、陰徳を積もう。

 二、窮困に処するほど快活にしよう。窮すれば通ずる、又通ぜしめるのが、自然と
人生の真理であり教えである。

 三、乱世ほど余裕が大切である。余裕は心を養うより生ずる。風雅も却ってこの処
に存する。

 四、世俗の交は心を傷(いた)めることが少なくない。良き師友を得て、素心の交
を心がけよう。

 五、世事に忙しい間にも、寸暇を偸(ぬす)んで書を読み道を学び、心胸を開拓し
よう。

 六、祖国と同胞の為に相共に感激を以て微力を尽くそう。



 ※素心=利害や意見や年齢や地位身分など、そういう様々な世間の着色に染まぬ生
地のままの純真な心を素心という。



   信念の力



 現代の人間は、良いことを聞いても、良いなあと思って感激はしても、それが、本
当に自分の心のものにならないのは、心の中に大事な信念というものが、知らず知ら
ずのうちに、欠如しているからなのである。欠如しているというより、むしろ下積み
になっているといおう。

 ともあれ、信念の力というものは、実に諸事万事を完全にする根本的な要素なので
ある。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 06:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月10日

安岡正篤「活学一日一言」、中村天風「一日一話」。

   12月10日(土)  終わりを全うする



 宇宙が永遠であるように、人生も永遠でなければならん。

 永遠であるということは、その途中を受け継いでゆく人がよく終わりを全うしてゆ
くということであります。

 終わりを全うしなければ、次の者は始めることができません。

 従って終わりを全うするということは、どこまでも続けてゆくということであり、
よく永遠であるということに外ならない。



   中途半端な理性の弊害



 文化民族の一番いけないことは、理性がなまじっか中途半端で発達しているから、
ときには肉体が自分だと思ったり、ときには心が自分だと思ったりして、鳥かごの中
のカナリアと同じで、あっちに飛んだり、こっちに飛んだりして、両方から来る複雑
な、言い知れない煩悶や苦しみで、一日一分といえども安心した人生を生きられない
哀れな人間ができてしまう。
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2016年12月09日

安岡正篤「活学一日一言」、中村天風「一日一話」。

   12月9日(金)  我が計をなすべし



 どうせ吾吾は飯を食っても胃袋以上には食えない。五尺の身体に 八尺の着物を着
せても着られないのだから、大体衣食僅かに足れば好い。どうかこうか衣食足りれば
それで好いとしたものである。黄金万両を残すもかえって子孫の過ちを増す。書万巻
を残しても子孫必ずしも書を読まぬ。立派な親の大事にした書物を二束三文で叩き
売ってしまう。そんなことは実に悲惨なものである。だから子孫には自ら子孫の計あ
り。我はまさに我が計をなすべし。人世を達観した古人の名文句と思う。



   精神が肉体を支配する



 真理はまことに厳粛で、人間がどう勝手に理屈を脚色しても、すべての神経系統
は、肉体の支配を受けているものではなく、精神=心の支配を直接に享受して、生命
維持の運営作用を行っているのである。



   貴 老



 人間は生ける限り、常にぼけないで、なるべく有意義なことに興味を持ち、道理を
尋ね、情熱を抱き続けることが肝腎である。

 不老長生とは徒に年を取ることではない。いつまでも生きる限り、ぼけないで、人
生に興味を持ち、情熱を抱き続けて勉強することである。

 老人に対して貴老と呼ぶ。好い語である。老人はいつまでも愚老になってはいけな
い。文字通り貴老でなければならぬのである。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 04:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする