2016年10月25日

安岡正篤(やすおかまさひろ)「活学一日一言」、中村天風「一日一話」。

   10月25日(火)  明治と大正



 明治・大正・昭和を通観しますると、何といっても明治という時代は少なくとも真
剣でありました。

 同様にスターリンがソ連を支配していろんなスローガンを出し「追いつけ! 追い
越せ!」と盛んに国民を叱咤激励をしたことをご記憶の方もあろうかと思います。ま
た中京の毛沢東は「大躍進」の号令をかけましたが、このスターリン、毛沢東の両者
とも素直に申しますと甚だ不成績であります。

 これらにくらべて我が日本の明治の歴史をみますと、遅れていた西洋文明、科学文
明を発達させるため「追いつき、追い越せ」の国民運動が世界の奇蹟といわれるよう
な成功を収めました。

 ところが大正時代はどうであったかと申しますと、疲れたり、ゆるみが出たりとい
う好ましくない現象が起こっております。特に第一次世界大戦によって、大した努力
もしないのに、いわば漁夫の利をしめる立場で好景気に恵まれ、金もうけができまし
て、札びらが全国に舞うようになりました。これが日本を非常に堕落させました。



   人間は本来幸福に活きられる



 人間というものは、老若男女の差別なく、その生命の中に健康も運命も自由に獲得
し、また開拓し得るという真に感謝に値する偉大な力が与えられている。

 人間は、そうやたらと病や不運に悩まされたり、虐げられねばならぬものではな
く、よくその一生を通じて、健康はもちろん、運命もまた順調で、天命を終わるまで
幸福に活き得られるように本来的には作られているものなのである。



   国を亡ぼす君主



 国を亡ぼす君主というものは、きまって自ら驕り、自らを知恵あるとして、人を軽
蔑するものである。

 自らを驕れば人材をいい加減に取扱い、自らを知恵ありとすれば専制独裁をやる。
相手を軽んずれば備えがなくなる。何事があっても、びくともしないという用意がな
くなってしまう。

 備えがないと禍を招き、独裁をやると地位が危うくなり、人材を軽んずるとすべて
が塞がってしまう。そうして自ら亡んでしまう。
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2016年10月24日

安岡正篤「活学一日一言」、中村天風「一日一話」。

   10月24日(月)  佳境に入る



 年とともに人間の佳境に入るのがほんとうである。



   他人への同化に注意



 他人の消極的な言葉や行いに、知らず知らずに同化するつもりがなくても同化せし
められちまうのであります。そして、同化するといつしか、自分も同じように哀れ
な、惨めな人間になっちまうのであります。

 しかも、そうした恐るべき誘惑が悪意でなく行われているんです。それを考えたら
一段と注意しなければならないということがおわかりになるでしょう。



   堕  落



 凡そ人間が唯物的享楽的に堕落して来ると、必然、精神的には敬虔を失い、破廉恥
になり、あらゆる神聖なるものの意義を疑い、人生の厳粛なる事実に軽薄厭うべき批
評、否嘲笑を放つものである。
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2016年10月23日

安岡正篤「活学一日一言」、中村天風「一日一話」。

   10月23日(日)  霜降(陰気深くなり、露は霜と化して草木の葉は黄変
する意味で霜降と言う)    相と運と学



 真理・学問というものは、その人の相とならねばならぬということであります。そ
れが動いて行動になる、生活になる、社会生活になる。これを運と言う。そうしてこ
そはじめて本当の学であります。

 学はその人の相となり運となる。それが更にその人の学を深める。相と運と学とが
無限に相待って発達する。つまり本当に自己を実現する。



   周章狼狽の愚



 多く言うまでもなく人間と言うものは、いかなる場合にもその人生に活きる際、慌
ててはいけないのである。



 というのは、人生に生ずる錯誤や過失というものは、その原因が、心が慌てたとき
に多いからである。

 慌てるというのは、またの名を周章狼狽というが、これは心がその刹那放心状態に
陥って、行動と精神とが全然一致しない状態をいうのである。心がこうした状態に
陥った時というものは、意識は概ね不完全意識になっているのである。



   三上の読書



 つまらぬ小説や愚論に類するものはなるべく読まぬようにすると共に、心が浄化さ
れるような立派な書を読むべきである。

 特に朝、それも一時間とは言わぬ、三十分でよい。

 昔の人も枕上(ちんじょう)・馬上・厠上(しじょう)の三上の読書ということを
言っておるが、私は長年必ず厠(かわや)で読むことにしておる。

 厠で読むだけの時間であるから、何枚も読めるものでもないが、十年、二十年と経
つと、自分でも驚くほどの量となる。

 しかもこれは数量の問題ではない。その時に受けるインスピレーションというもの
は、到底書斎の中で何々の研究などやっておって得られるものではない。

 況やこれから安眠熟睡しようという枕のほとりにおいておやである。寝る前に週刊
誌等を読むのは最も愚劣なるものである。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 07:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする