2016年10月19日

安岡正篤「活学一日一言」、中村天風「一日一話」。

   10月19日(水)  信 友



 誠の友には、限り無い信頼の歓喜、いつでも理解してあえるという確信があるか
ら、何でも言える楽しみ、雄々しく又赤裸々な生活の陶酔がある。

 多数の俗人から認められず、少数の友人から認められることは楽しい。

 偉大な魂の主はその敵を軽蔑するものではなく、実は忘れるものなのである。

 寛容は超脱の最も丁寧な形式である。

 感情を害し易い性格の人々には春がない。

 真の友好は精神の宮殿に於ける心と心との楽しい饗宴である。

 こういう信友同志の集まりは、如何にささやかに見えるものであっても、そこに集
まった人々を凡俗とは異なった別の人間にし始めるものである。

                      -----アベル・ボナール『友情論』
より



   求  道



 努力が自己を満足せしめる程度のもので表現もしくは自覚されないと、この方法で
はだめだというふうに軽率に判断して、次から次へと他の方法を求めるか、さもなけ
れば、求道という、人間のみ賦与されている尊い心意を、自分の精神領域から知らず
知らず除去してしまう。人間万一そうなったら、自己尊厳の冒涜であるばかりでな
く、厳密な意味でいうと、精神的な自己放棄だということになる。

 しかし、ほんとうに、正念を持つ人というものは、決して人生というものをそんな
浅い考え方で考えてはいない。



   使  命



 人間、いかなる誘惑を受けても、いかなる迫害を受けても、最後に一つ為さざると
ころがなければならぬ。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 05:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月18日

安岡正篤「活学一日一言」、中村天風「一日一話」。

   10月18日(火)  君子は豪傑たれ



 総じて善人とか君子とかいわれる者に志気がない。彼等は沈香も焚かず屁も放
(ひ)らざることを以て至善と考えたり、道端の小石を除いたり、坂の車の後押しを
したことを、一大善事を為したかの如く興奮する。遺憾ながら是(かく)の如き善人
君子は世に横行する悪人大俗の輩から軽侮されても致し方が無い。まことは君子が豪
傑でなければならぬ。聖人が英雄でなければならぬ。



   人生は死ぬまで闘病



 人間は生まれたときから死ぬまで絶え間なく病と闘っている。健康とはその戦いに
打ち勝っているときの状態である。

 自分がその生命に違和異常を感じるとそれを病と言っているが、それは生命が病的
刺激と闘っていることを意識しただけのことである。意識しない前に既にこの戦いは
開かれている。開かれていたのである。だから積極的な抵抗力を常に養成する必要が
あるのである。



   しびれる



 何にしびれるかによって、その人は決まる。

 中江藤樹は『論語』と王陽明にしびれていた。

 人間は本物にしびれなければならない。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 05:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月17日

安岡正篤「活学一日一言」、中村天風「一日一話」。

   10月17日(月)  徳を好む



 食を欲し、色を好む様なことは、未(ま)だ人間の一般的な低い性能に過ぎない。
徳を好むに至って初めて人に高き尊き大いなる生があるのである。我等世紀末の人間
は性能の低きに走って、この徳を好むことが出来ない。才を愛し得ても徳を解しな
い。



   観念が人生を決める



 どんな、唯物論者でもまた物質至上主義者でも、心を度外視し、観念を没却して、
その議論を決定することは断じてできない。

 否、観念こそ人生を極楽にもし、また地獄にもする。これが絶対の真理である以
上、いかなる場合にも、憂愁、煩悶、恐怖、憤怒、悲観、苦労は断じて禁物である。



   人間の因襲



 物には慣性というものがあります。人間には因襲というものがある。

 同じような人ばかり、同じようなことを考え、同じような話をし、同じようなこと
を繰り返しやっておりますと、非常に単調になる。単調になると、これは人間の習慣
性で、生命、精神が鈍ってくる、眠くなる。人間が眠くなると溌剌たる創造性を失っ
てくる。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 05:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする