2017年05月31日

「真人生の探求」(中村天風)

   5月31日(水)  精神本位の方法



 それでは、心身統一を期成するのに必要とする心の道及び肉体の道とは、一体どん
なものかというと、総括的にいえば、心も肉体も恒に厳格に自然法則に順応せしめる
ことである。これは何も特別の説明をするまでもなく、自然界に生命の存在する以上
は、終始自然界に現存する自然法則の支配を受けているから、一歩と雖もその支配の
埒外に踏み出すことを許されないという自明の理由があるからである。ところが遺憾
ながら、文化の民族ともあろうものが、事実に於いて、現在自分がこの自然界に生ま
れ、この自然界に活きつつあるにもかかわらず、自然界にどんな法則があるかを知ら
ずに、漫然として活きている人が、現に相当多い。考えても見るが良い。人間同士が
その集団生活の秩序と安寧とを保持するために、人為的に作成した法律規則でさえ、
これに背反すれば必ず罰せられる、このように人間の作った法則にさえ、その背反に
対する償いの制裁のあることを思う時、人間以上の造物主の作った自然界に実在する
法則に順応せず背反すれば、忽ち何らかの掣肘をその生命存在に受けねばならぬこと
は、当然のことである。

 尤も、人間の作った法律規則は、成文律のことであるから、文字を通じてこれを知
ることが出来るが、自然界に在る自然法則というものは、不文の律なので、文字を以
て予め人の理知に入れられていないから、或る程度の研究を施さないと分明しないと
いう理由もあるが、然し、かりにも、真に人生を愛し、正しく人生を考えようとする
者は、是非共これを知得して置くべきが、人生に対する当然の責務であり、かつまた
聡明な準備である。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 05:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月30日

「真人生の探求」(中村天風)

   5月30日(火)  精神本位の方法



 然し、そうした手段で、心の動乱が処置出来るものなら、人生は頗る簡単だが、決
してそんな生易しいものでないのが人の心の動きではあるまいか。否、邪念を抱き不
正を思う心が、人生に良くない悪いことだということは充分に心得ていても、ともす
るといつしか心に邪念を抱き、不正を思う心が動くので困るのではないか。悪いか
ら、良くないからと、直ちに手の裏を返すようにこれを抑制したり禁止することが容
易に出来るものなら、人誰か煩悶に陥らんや、煩悩に苦しまんやである。またそれが
百歩を譲って出来得るとしても肉体を軽視没却した方法では、生命の全般のよく平衡
を確保することは到底望むべくもない。

 この理由があるために、肉体本位の方法も、精神本位の方法も、ただその一方だけ
を重視したものでは、理屈はどうでも、肝心の人生解決の核心ともなるべき生命諸般
の力が、完全に充実しないから駄目であるというのである。即ち、どの点から論じて
も、心にも偏せず、肉体にも偏せざる、換言すれば、生命のそのままの姿である心身
一如に則った方法でなければ、到底所期の目的は達し得られない。またそうするに
は、前に述べた通り、心を心の道に、肉体を肉体の道に順従せしめた、心身を統一し
た活き方を行うのでなければ不可能である。
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2017年05月28日

「真人生の探求」(中村天風)

   5月28日(日)  精神本位の方法



 他方において、更に心=精神 のみを本位とした方法にも、決して無条件では賛成
の出来ないものが多い。というのは、心だけを本位とする方法では、往々肉体生命を
軽視するために、心身相関の関係がややともするとその徹底を妨げる。その上精神本
位の方法は、修養的のものでも、宗教的のものでも、おおむねその行入共に頗る困難
のものが多い。

 現に、錬心上一番の捷径だと、古来から呼ばれている座禅行の如きでも、一見入る
に易きもののようであるが、よくその三昧得道の妙境に達入する者果たして幾人かと
いってよい程、目的の彼岸に深到することは、容易でない。それもいつでも、随時随
所打坐瞑想し得る余裕のある時間をもつ人なら兎に角、日常忽忙たる人生に応掌する
者には、初歩入門すら決して容易でない。尤も座禅の必要は打坐に非ず、要は平常の
刹那刹那に在りと禅僧は説いているが、それが中々凡人には、そうはうまく直入会得
が出来ない。であるから大抵は徹底せずして止めてしまうか、さもなければ俗にいう
野狐禅になり終わる。

 何れにしてもこのような事態であるために、在来の精神本位の方法は、説は洵に良
しといえても、その応用価値が、普通の人生に携わる人には、容易に味われないとい
う、都合の悪い事実が実際においてある。のみならず、大抵の方法が、心の動乱の抑
制禁止ということに重点を置いてあるのは、一段と考えさせられる問題である。即
ち、邪念を起こすことは悪いことだから、この発動は必ず抑制せよとか、不正を思う
心は修業の障りであるから、断じてこれを禁止すべしというように、戒律的の言葉
で、心の動乱を処置させようとする。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 06:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする