2017年05月28日

「真人生の探求」(中村天風)

   5月28日(日)  精神本位の方法



 他方において、更に心=精神 のみを本位とした方法にも、決して無条件では賛成
の出来ないものが多い。というのは、心だけを本位とする方法では、往々肉体生命を
軽視するために、心身相関の関係がややともするとその徹底を妨げる。その上精神本
位の方法は、修養的のものでも、宗教的のものでも、おおむねその行入共に頗る困難
のものが多い。

 現に、錬心上一番の捷径だと、古来から呼ばれている座禅行の如きでも、一見入る
に易きもののようであるが、よくその三昧得道の妙境に達入する者果たして幾人かと
いってよい程、目的の彼岸に深到することは、容易でない。それもいつでも、随時随
所打坐瞑想し得る余裕のある時間をもつ人なら兎に角、日常忽忙たる人生に応掌する
者には、初歩入門すら決して容易でない。尤も座禅の必要は打坐に非ず、要は平常の
刹那刹那に在りと禅僧は説いているが、それが中々凡人には、そうはうまく直入会得
が出来ない。であるから大抵は徹底せずして止めてしまうか、さもなければ俗にいう
野狐禅になり終わる。

 何れにしてもこのような事態であるために、在来の精神本位の方法は、説は洵に良
しといえても、その応用価値が、普通の人生に携わる人には、容易に味われないとい
う、都合の悪い事実が実際においてある。のみならず、大抵の方法が、心の動乱の抑
制禁止ということに重点を置いてあるのは、一段と考えさせられる問題である。即
ち、邪念を起こすことは悪いことだから、この発動は必ず抑制せよとか、不正を思う
心は修業の障りであるから、断じてこれを禁止すべしというように、戒律的の言葉
で、心の動乱を処置させようとする。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 06:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする