2017年08月16日

「真人生の探求」(中村天風)

   8月16日(水)  感謝の生活と三行



 実際、不平不満を常習としている人には、この感謝念というものが、頗る薄いよう
に思われる。西洋の訓(おし)えにも「感謝念の薄い人の人生には、幸福の女神はそ
の自愛の手を伸ばさない」 というのがある。これは事実、客観的に見ても、主観的
に見ても、同じことだといわなければならない。だから何事にも、先ず感謝本位で人
生に活きるならば、不平不満を感じない世界が、第一にその人の観念の世界の中から
生まれることになるから、単にそれだけでも大きい幸福である。ましてその尊い気持
ちの反映を受けて、自分の活きる人生周囲が、期せずして美化善化されるという現実
を考えたなら、これは単なる道義的のことでなく、広義に於ける人生生活法だと考定
されることと思う。

 かの儒哲として蹟名のあった熊沢蕃山が詠んだ有名な和歌に「憂きことのなおこの
上に積もれかし、限りある身の力ためさん」 というのがあるが、案ずるに蕃山の心
には、他人から見て不幸だ、不運だと思われるようなことも、少しも御当人には、そ
うと感じなかったに違いない。というのは、不幸や不運を寧ろ自己錬成への感謝で考
えておられたからだといえる。

 私は現在の日本を考え、単に不幸だと愚痴る人には、決して理想的の民主国家とし
ての真日本の建設などは到底覚束ないと思う。寧ろ、現下のお互い日本人は、現在の
すべてを、真日本の建設という一大事実を現実化すために、天が我等日本人に慈愛を
以て与えられた一大試練だと断定するならば、期せずして一切の事物現象が自己を研
き上げ、また自己をより高く積極的に啓発する題材となり、やがてその結果は、世界
平和に協調し得る国家社会を作り上げることが出来ると思う時、価値のない不平や愚
痴は忽ちその影を潜め、これにかわるに、限り無い感謝念の湧然たるのを意識するで
あろう。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 05:16| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月15日

「真人生の探求」(中村天風)

   8月15日(火)  終戦記念日  (其の二) 感謝の生活と三行



 次に、必要な事は、不平不満の意思表示を断然しないことである、万一心に、何か
の不平不満を感じた時は、自分より以下の運命や境遇に活きている人の現在多いこと
を、思い見るべきである。

 昔の諺にも「上を見ればきりがないから下見て暮らせ」 という意味の教えがある
が、実に穿ち得た尊い言葉であると思う。こういうとまた中には、そんな気持ちで活
きたら、向上心なんか何処かへ影を潜めてしまって、いわゆる人類の発達性が阻害さ
れるであろうという人もあろう。然しそれは大変な間違いである。まして不平不満と
いうこととは相対関係は少しもなく、寧ろ相反するものだといわねばならないことを
考えると、断じて不平不満を心に抱く勿れである。第一不平不満を心に抱くと、その
心は卑屈になり、萎縮的になり、自暴的になる。そしてその結果奮発心も、蹶起心も
出てこなくなる。その上、それが一つの性癖となって、僅かなことにもすぐに不平を
起し、不満を思うようになる。

 一体に、不平不満を感ずる人は、自分より幸福の者を標準とする傾向が多分にあ
る。例えば運命に対しても、世の中には自分よりもっと幸運の人がいるのに、.自分
は少しも恵まれないとか。また不健康の際でも、世の中には随分と丈夫な人も多いの
に、自分は何という憐れな弱さであろうと言う風にーーーそして果ては他人を怨嗟
し、親兄弟まで悪く思い、遂にはこの世に神も仏もあるものかなんて無鉄砲のことを
いう人さえある。

 そして、そういう心持の人に限って、この世の中には、自分よりもっと運命的に
も、健康的にも、不幸の人のいることには考え及ばない。だから、自分が今そういう
極度の不幸の人の陥っているような状態にならずに、この位の処で活きておられると
いうのは、ありがたいことだと、それを感謝しようという気持ちが少しもない。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 05:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月14日

「真人生の探求」(中村天風)

   8月14日(月)  (その一)  日常の言行



 たとえば健康問題に係る考え方も、.ああしたらわるいだろう? こうしたら障る
だろう? とか、運命問題も、到底突破できぬとか、立ち上がれないようになるだろ
う? とかいつも暗い方面のみを見て、少しも明るい方面にその心を振り向けようと
しない、従って、その人生に何の活気もなく、寧ろ極言すれば陰惨なものさえ感ぜし
められる。

 これでは人生五十年何の価値も無いのである。

 多くいうまでもない。人生とは観念の世界である。気分の娑婆である。

 だから、他人はどうあろうとも、自己だけは、どんな窮地に立った時でも、その心
の積極性を失わないように、言語などは特に、雄々しく勇ましくあれということであ
る。

 考えて見るが良い。やれ困ったの、やれ情けないの、やれやり切れないの、やれ悲
しいの、やれ恐ろしいのという時、自分自身颯爽たる勇ましさを感じるかどうか。

 更にその言葉のために、自分の活きる世界がよくもわるくもなるという、目に見え
ない宇宙真理の厳存することを考える時、ほんとうに、自分の言葉には、どんなこと
があっても消極的なものを使わないことである。

 実際、ただ単に、消極的な思考でさえ、自己の人生に良くない結果を作る原因とな
るのに、それを更に言葉で表現すると、一層それを加重して印象することになるとい
う事実現象を想えば、言葉には常に積極性を失わない注意こそ肝要である。否この心
がけを実行することに意を用いると、自然とそれがまた習性化して、やたらと無分別
に消極的の言葉を使用しなくなるという理想的な人生に活きられるようになるのも当
然のことである。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 05:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする