2018年01月31日

「研心抄」(中村天風)

   1月31日(水)  第一節 「心」とは何ぞや?



 多くの人は、「心」「心」と口では盛んにいうが、その心に一体どういう区別があ
るのかという事を、本当に知らずにいるという傾向がある。そしてそれがやがて、自
己を正当に統御する事が出来なくなるという危惧すべき結果を招来する原因となって
いるのであるが、兎角現代人は特に理智階級者は、この種の重要な人生に対する先決
問題についての理解をいつも後回しにして、後回しにしてもよい事をさもさも先決せ
ねばならぬように誤認するため、口や筆で盛んにいろいろの理屈や論議を物識り顔に
蝶々する割合に、少しも自己の統御が完全に行われず、一寸見ると諸事無関心でのん
きのように見えてもそれはその時の調子によるだけで、従って病めば極度に弱く、悲
運に陥れば又極度に悩むというように、絶えず心を紛糾混乱させ、従ってその人生活
動も内容頗る貧弱で、折角の学識も理智も、何等世の中のために重要な働きも又貢献
をも為し得ないで、あたら人生を無為にして終わる、という状態の人が、寧ろ数に於
いて少なくないのではあるまいか。

 宋氏の言にも「学者偶々世を誤る」といったのがあるが、正に現代の理智階級者に
対する頂門の一針ともいうべき好風刺である。が然しこれでは何の為に学問をしたの
か、又何のために理智を育成したのか、皆目判らぬということになる。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 05:08| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月29日

「研心抄」(中村天風)

   1月29日(月)  第一節 「心」とは何ぞや?



 先ず第一に必要とする理解は、「心の要素とこれに関する約束」、という事であ
る。

 およそこの理解は、かりにも悟入自覚を現実にしようとするものには極めて重要な
要項なので、換言すればこの理解がなくては悟入自覚は到底具体化されない。

 というのは多くいうまでもなく、吾人人間の心の活動=心理現象 なるものは恒に
高級のものと低級のものとが極めて雑然たる混合状態で間断なく意識の領域の中で行
われて居るがため、漠然としてこれに対すれば、その考察の混同をよく収拾し得ない
結果に陥るからである。

 これに反して、心の要素とこれに付随した約束というものを正当に理解する事が出
来れば、その意識領域の中に発動する各種の心理現象に対し一々正確な判断がつくた
め、どんな葛藤がその考察の上に生じても決して錯誤に陥ることなく、整然とこれを
収拾解決する事が出来て、同時に心というものも肉体と同様に、真我の生命の附属要
具であるという消息を如実に合点し、完全にこれを自己生命のために、また自己人生
のために行使することが出来得るに至る。

 それでは、心の要素とこれに付随関連した約束とは、一体どんなものであるかとい
うと、順序として心の区別というものから理解せねばならない。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 05:25| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月27日

「研心抄」(中村天風)

   1月27日(土)  第二章 心に関する重要な理解と消息



        第一節 「心」とは何ぞや?



 さて諸君は前章に於いて既に「自我の本質」というものを概念的に理解された。同
時に真我=本当の自己 というものがこれ又判然された事と信ずる。

 そしてその結果、心や肉体というものは、真我の生命の活きるために必要とする諸
般の方便を行う生命用具であるという事も了知されたと思惟する。

 が然し、およそこの種の理解というものは、ただこれを理論的に会得したというだ
けでは、かりそめにも人生を有意義に活きんと欲するものは未だしなのである。

 即ち要約すれば、如上の一切を信念的に自覚しなければ、折角の理解が完全な結果
を到底人生に招来しないという遺憾な事になる。

 それならば、これを信念的に自覚するにはどうすればよいかというに、即ち心によ
りもっと一段進んだ実際的修養というものを施さなければ、到底所期の目的を達成す
ることは出来ない。

 この実際的修養のことを、哲学的にいえば「悟入自覚の修養」と称する。

 そこで、この悟入自覚の修養を現実に具体化するために、更に人間の心に関する重
要な理解と消息と、そしてその心を如何なる法則と手段の下に訓練啓発すべきかとい
う貴重な人生事業の要諦に論及する事とする。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 06:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする