2018年01月25日

「研心抄」(中村天風)

   1月25日(木)  第二節 真我不滅の要諦(生死の正念諦観)



 由来現代人の多くが有する霊魂不滅の観念は概して信念的でなく、又中には只単に
宗教的の信仰念でそう思惟して居るという傾向があり、換言すれば総じて概念的で
往々に漠然たるものがある。

 しかしながら真にこの荘厳な正しい理解を基盤として霊魂不滅を思量検討すれば、
確固不抜の正信念を確立する事は蓋し容易であると信ずる。

 それ故に、苟も人間の生命真理に真正な自覚を求望する人は、自己の真相である即
ち自我の本質と、その本質の固有する勢力並びに真我の不滅という大事実に対する正
信念に安定(あんじょう)するため、心を霊的境地に移す正念の啓発を怠る事無く精
進努力すべきである。

こうして初めて人間の生命の偉大にして幽玄、微妙にして権威ある事を悟り得て、同
時に常住邪気なき天真を流露して、如何なる人生を脅かす波乱の襲来を受けても、恰
も澎湃たる荒波の中に巨厳屹然として立つが如く、極めて悠々自若と自己の一切を統
御支配する事が出来、真に雄大にして荘厳なる人生に活き得るようになり得る。

 然もこの妙理を把握しこの妙域に到達するには、先ずその生命の要具たる心と肉体
とに付随する真理を理解し、その理解を基礎とした現実的活用を心身二面に施さなけ
ればならないのである。



         バツ(おくがき=書物のあとに付ける文)



 そもや真我の実相は水火侵し能わざるの絶対にして亦不朽不滅の実在なり。人もし
この信念に真に安定(あんじょう)するを得ば、肉の呵責も、人の世の非業も夢幻の
如くに消え失せて、無限至上なる歓天喜地の世界現れん。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 05:26| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月23日

「研心抄」(中村天風)

   1月23日(火)  第二節 真我不滅の要諦(生死の正念諦観)



 西哲の言にも「恐怖を感ぜざる人生は神の世界に生くるに等しい」というのがあ
る。が実際においておよそ恐怖という観念位人生を毒するものはない。言い換えると
人生の安定というものが徹底的に破壊される。たとえば病を気にするのも恐怖念があ
るからで、更に運命や人事世事をいろいろと取り越し苦労するのもやはり恐怖念が働
くからである。

 病や運命を気にすれば、その結果が一体どうなるかという事は、既に別著「真人生
の探求」にも詳述したとおりで、百損あっても一益さえない。

 第一恐怖観念というものがその心に生じた時、その心に何かの楽しみを感じるか、
あるいは何かの愉悦感を覚えるかを考えて見るべしである。

 これに反して人間の心の中に恐怖観念というものの発生する程度が軽減されると、
どれほどか人生に感ずるなごやかさが多大になるかである。そしてその結果は健康上
にも又運命上にも良好なる反響を波及する。

 という忽せになし得ない事実が人生に存在する以上、かりそめにもその心を肉体本
位に偏倚せしめることを可及的に避け、只管に真我本位に活くべきである。

 そしてこの心がけが徹底されて常住真我本位という正信念が確立されると、よしん
ば肉体は亡び失せても、また心が消滅しても、この絶対の本源的中枢実在たる真我だ
けは決して滅びるものではないという大真理に、吾が心は期せずして融然と到達し得
られる。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 05:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月22日

「研心抄」(中村天風)

   1月22日(月)  真我不滅の要諦(生死の正念諦観)



 そこで苟も正当な人生生活を営為するためには、何をおいても先ず真我に則する実
際消息を正確にその心に理解づけねばならない。

 然らば真我に内在する力とはどんなものであるかというに、曰く絶対的不可犯のも
のなのである。

 然るにこれに引きかえて肉体の有する力は、いわゆる相対的のもので、その証拠に
は火や水や大気等には物質的の法則として敵することの出来ない場合が多い。

 然しながら真我というものは、全生命の本源的中枢をなすところの霊魂である。そ
して霊魂とは肉体のような形象を有しない無形の一実在である。故に断じて火にも水
にも、否、一切の何ものにも決して犯されない即ち絶対的不可犯のものである。

 そして絶対的のものには又絶対的の力のあるのは敢て贅言を要しない当然の事であ
る。

 吾人がこの荘厳な消息に対して正しく信念する事を得たならば、凡そ従来その心に
感じていた「恐怖」 という観念の大部分のものは、恰も朝日の前の霧のように消え
去り、かわりに勃勃たる勇気が驚くべき程その心に漲り来たるのは必然である。

 というのは、冷静に考えて見ると直ちに分明する事であるが、人間の心に生ずる恐
怖観念なるものは、その多くは肉体を本位とするために発生するものなのである。

 ところが一旦真我を本位として考える時、それが何ものにも犯されない絶対的のも
のであるだけに、些かの恐怖感も感ぜぬ事になる。

 判り易くいえば、人間がいろいろの事を恐怖するというのは、何かそれが人間の本
能的の事であるかのように思惟する人もあるが、煎じ詰めるとその心の使い方が余り
にも肉体本位に偏帰するためだと言える。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 04:24| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする