2018年01月20日

「研心抄」(中村天風)

   1月20日(土)  大寒(万物を凍らせるという厳寒となるので

                大寒という。)

       大二節 真我不滅の要諦(生死の正念諦観)



 前節に於いて真我=本当の自己、というものの本体が何であるかを説明した。

 そこで次に特に正しい理解を必要とする事は、この真我というものに内在する力の
消息と、同時にこの真我というものが絶対不滅のものであるという二つの重要な事柄
である。

 およそこの二つの事柄が、確実に吾人の人生信念となるならば、その人生観は期せ
ずして確固不抜のものとなり、人生如何なる難局に立つ場合と雖も、些かも逡巡忸怩
たる事無く悠然乎としてこれに対応する事を得るに至ることは必然である。

 由来、凡人と真人とは、その外見においては些かの変りもない。否ある意味からす
れば凡人の方が真人よりも小才もあり利口そうに見える場合が多い。というのは、真
人はその心の使い方が凡人輩と異なり、小事些事に濫りに拘泥せず、人事世事にも敢
て神経過敏的に応接しない。そして毀誉褒貶をも大して意としないという状態が多い
から、何となく常識的でないかのように見える。

 古語にも大賢は愚の如く、大人は小児の如しというのがあるが、何れもこれは悟道
を得た非凡人を評した言葉である。兎に角凡人と異なりその人生観が確古不抜である
から、如何なる場合にも、いわゆる「有事無事、常若無心」 という状態で経過す
る。それ故にこれを客観的に観察すれば、人事世事一切に対して宛然無関心であるか
のように見えるため、畢竟凡人輩の目にはそれが愚者のようにも見えまた小児のよう
にも映ずるのである。

 が然し、一朝何事かがその人生に惹起した場合、凡人と真人とはっきりと著しい相
違を表現する。

 即ち、病難に対しても、又運命難に対しても、凡人が心の平静を失って狼狙焦心す
る時、真人は寧ろ、平然としてこれに対応する。

 というのも、蓋し前述したとおりその人生観が確固不抜であるからなのに起因す
る。しかもその根本基盤は真我の力とその不滅に対する信念というものが実に牢固と
して抜くべからざるものがあるためだという事を見逃す事は出来ない。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 04:32| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月18日

「研心抄」(中村天風)

   1月18日(木)  「我」とは何ぞや?



 尤も稀に、ある修業を積んだとか、又は幽玄な哲学的思索や研鑽に努力没頭したと
か、或は生まれつきこういう方面に対する信念を保有する人とか、又は偶然何かの動
機から偶々這般の消息を自覚したものは、この勢力を如実に人生に活用してよく凡庸
の群を抜いて、或は真人となり、偉人となり、至人となり、又は覚者となり、哲人と
なる。但しこのいろいろの名称は、その人の自覚と応用の程度から招来される相違な
のであるが、ただ遺憾ながら現代にはその種の非凡の人というのは極めて少々で、そ
の大部分は概ね自己の何たるかを自覚して居ないという、凡の凡、俗の俗たる無理解
無自覚で、ただ生きているが故に活きているという種類の人が多い。

 そういう人を極言すれば、何のことは無い、一般の動物とただその形が相違してい
るのと、屁理屈や不平や不満をいうだけの相違があるだけで、些か露骨ではあるが、
犬や馬よりは幾らか気の利いている動物的人種であると言い得ると思う。

 然しそれでは、折角優秀な理解力と自覚念というものを心に賦与され、万物の霊長
としてこの世に人間と生まれたかいがないという事になる。

 そこで、苟も自己を真正の人間なりと自覚するならば、心や肉体を生命の要具とし
て行使するため、正しくこれを支配統御して健康や運命を自由に建設し、又開拓し得
るいわゆる真人の境涯に活きて行く事を先ず第一に企図しなければならない。

 実際に於いて、そうしないと、人間としてこの世に生まれた事を正当に意義づける
事が不可能となり、明け暮れ運命難や、健康難に悩まされつつ、貴重な人生の憐れ下
らなく活きねばならぬという、いわゆる凡人の境涯でその一生を終わらねばならぬと
いう価値のないこととなる。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 04:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月16日

「研心抄」(中村天風)

   1月16日(火)  「我」とは何ぞや?



 然るに、このような峻厳な消息があるにも拘らず、現代活きる人々を観ると、その
概ねは真我というものに対する意識観念が極めて漠然たるものがあり、その多くは率
直にいえば只単に、寝て起きて食って垂れるという事を、活きている間毎日反覆する
だけで、従ってその心はその肉体生命存続のために使用するもののように考えて、こ
れを形容すれば秩序も系統もなくただ当たるに任せて八方乱切り的に酷使し、そして
物質的の肉体を人間の全部のように誤認して、無自覚裡にその尊い一生を終ろうとい
う、いわゆる動物的方面の生命存在を認めるに過ぎない。

 又少し気の利いた考えをもって居る人でも、ただ心と肉体の位置を置き換えて生命
消息を考えるだけで、それ以上真我とは一切の生命現象を作為する本源的中枢実在で
ある尊厳なる霊魂なりという厳粛な大事実を意識的に自覚している人などは実際滅多
に無いという有様である。

 私が別著「真人生の探求」の記述中にも言及した通り、現代人が人間の生命の奥
に、運命や健康を確保する潜勢力なるものが内在するという偉大な消息を自覚して居
る人の少ないのも、蓋しその理由は又この自我の本質に対する無自覚という事がその
根本主因なのである。

 というのは、その潜勢力なるものこそは、真我である本源的中枢の固有する力の発
露であるがためである。

 ところが自我の本質に対して無自覚であると、「われ」というものの本体である霊
魂という一実在が、生命の一切の本源的中枢であるがために、絶対的ともいうべき偉
大な勢力をもっているものであるという実消息が判然しなくなるのである。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 04:57| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする