2018年01月18日

「研心抄」(中村天風)

   1月18日(木)  「我」とは何ぞや?



 尤も稀に、ある修業を積んだとか、又は幽玄な哲学的思索や研鑽に努力没頭したと
か、或は生まれつきこういう方面に対する信念を保有する人とか、又は偶然何かの動
機から偶々這般の消息を自覚したものは、この勢力を如実に人生に活用してよく凡庸
の群を抜いて、或は真人となり、偉人となり、至人となり、又は覚者となり、哲人と
なる。但しこのいろいろの名称は、その人の自覚と応用の程度から招来される相違な
のであるが、ただ遺憾ながら現代にはその種の非凡の人というのは極めて少々で、そ
の大部分は概ね自己の何たるかを自覚して居ないという、凡の凡、俗の俗たる無理解
無自覚で、ただ生きているが故に活きているという種類の人が多い。

 そういう人を極言すれば、何のことは無い、一般の動物とただその形が相違してい
るのと、屁理屈や不平や不満をいうだけの相違があるだけで、些か露骨ではあるが、
犬や馬よりは幾らか気の利いている動物的人種であると言い得ると思う。

 然しそれでは、折角優秀な理解力と自覚念というものを心に賦与され、万物の霊長
としてこの世に人間と生まれたかいがないという事になる。

 そこで、苟も自己を真正の人間なりと自覚するならば、心や肉体を生命の要具とし
て行使するため、正しくこれを支配統御して健康や運命を自由に建設し、又開拓し得
るいわゆる真人の境涯に活きて行く事を先ず第一に企図しなければならない。

 実際に於いて、そうしないと、人間としてこの世に生まれた事を正当に意義づける
事が不可能となり、明け暮れ運命難や、健康難に悩まされつつ、貴重な人生の憐れ下
らなく活きねばならぬという、いわゆる凡人の境涯でその一生を終わらねばならぬと
いう価値のないこととなる。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 04:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする