2018年03月13日

「研心抄」(中村天風)

   3月13日(火)  意志の力の発現に関して



 そこでなお一層この意識観念の確立を現実に助成する手っ取り早い方法として、次
の事の実行をお薦めする。即ち一日の中で適当な時を選んで、瞑目一番心を鎮めるい
わゆる鎮心行というものを行うのである。勿論その体勢は静座でも、椅子に腰かけて
も、又仰臥してでもよい、すると人に依って早い遅いの相違はあるが、やがて暫時に
して心の複雑な活動が止む時が来る、その時である。心の活動が止んでもそこに一つ
厳として自己存在の意識だけが残留して居る事を自覚されるに違いない。判り易くい
えば「われ在り」という意識だけは絶対に消滅しない。そしてこの意識を例えおぼろ
げにでも自覚し得れば、自己(真我)というものは、心よりも又肉体よりも超越して
居る一実在であるという意識観念が自然と確立され、諸君は悟入自覚という精神的進
歩の第一階級にその第一歩を踏み入れたこととなる。そしてこの意識観念確立の程度
に伴って益々自己(真我)の正確な自覚感に鮮明の度を加えて来る事になる。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 05:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月06日

「研心抄」(中村天風)

   3月6日(火)  啓蟄(地中で冬眠した虫類が、陽気で地上に這い出す頃

               の意で啓蟄という)



       第二節    意志の力の発現に関して



 この意識観念が確立されれば、昨日までの自分と今日の自分との上に実に嘱目すべ
き格段の相違と距離とを事実化し、今までのように自己の生命用具である心及び肉体
と自己(真我)とを混同しないようになり得る。そして今までよりも更に適当に心の
統御支配が正確に為し得るようになり、即ち用うべきものは用い、捨てるべきものは
捨てるというように、心の運用も断然安易を感ずるに至るのである。

 事実に於いてこうした意識観念を確立して自己を統御すると、正確に真理に順応す
る完全統御を頗る行い易くなるのである。そしてこの意識観念は理性心にも霊性神に
も応用し得る事また極めて容易で、その上その実際効果率も頗る多分である。

 というのは、この意識観念は一切の心を自己(真我)の統制下に於いて自由に操縦
し得るその第一過程となるからである。即ち今までにしたような本能心や理性心から
発生する心的作用や心理現象を、矢庭にそれを自己本体の意念のように速断して、徒
にこれに捉われて苦悩して居たという軽率からどんなに自己を救い得るか分からぬか
らである。実際多くの人々は真我の家屋や着物ともいうべき生命用具である心や肉体
に余りにも捉われ過ぎている。そしてその不必要なものにもなお纏綿と執着を以て、
人生苦を我から物好きにも増大しているという事を何を措いても先ず知らねばならな
い。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 04:56| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月05日

「研心抄」(中村天風)

   3月5日(月)  第二節 意志の力の発現に関して



 意志の力の発現と精神統一とは絶対不可分の条件の下にある。

 意志は精神領域が整然としている場合にだけ、その本来の絶対性を働きかけ集中す
るものである。

 本能的に発生する肉体感覚は勿論、その他各種の情緒であれ、はたまた理性心であ
れ、更に高級な霊性心であれ、苟も精神領域に発現するものは、悉くこれを客観視す
るという意識観念を習慣づけることである。

 たとえば今までは腹が減ったとか、手足が痛むとか、発熱したとかというような感
覚的の事は勿論、或は怒り悲しみ憾み妬みというような感情情念が発生した場合、概
ね多くはそれを直ちに自己の体が痛むとか私は腹が立つとかと考えていたのを、今後
はそれを自己の生命の附属要具である心がそう感じるので、即ち自己(真我)にはそ
う言う事態が発生しているのではなく、空腹感であれ、痛覚感であれ、乃至は怒りで
あれ、悲しみであれ、一切精神領域に発生するものは、心がそれを感じるのである
と、丁度第三者の動静を看るようにすべての心的作用や心理現象を思量するという意
識観念を習慣づけるのである。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 05:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする