これに就いて有益な一挿話がある。ある油絵師がどうしても裸体描写がわれながら
拙劣で到底自分には裸体画というものは描けぬと断念したものの、出来ないものは一
しお何とかして見たくなるという一種のアイロニックな観念で、どうかせめて自分の
満足する程度のものでよいから描き上げて見たいものと、折にふれては絵筆を手にし
て見るものの、いつもその習作の中途でご破算をせざるを得なくなり、そういう時に
は無性に自分の不器用さを腹立たしく感じるので、矢庭にバルコニーや庭面に飛び出
して、あてもなく空を眺めて半ばやけ気分で呆然とするという癖があったそうであ
る。ところがある日の事、例によって不出来な習作に快快として気を腐らしバルコ
ニーに佇んで見るともなしに空を眺めると、中天の其処彼処に片々たる雲影が散見し
て居た。それを無心で見ているうちに不図その雲の一つの中に人の形の様なものを発
見し、然もそれが見れば見る程何とはなしに裸体に見えるので、何とも言い知れぬ興
味を感じ出した彼は、なおも他の雲を眺めると、何とそれぞれ濃淡とりどりの裸形が
その中にあるように自分の眼に映ずるのでますます深い興味を感じ出し、その後は雲
の中から自己想定の裸体を見出す事に異様な感興を覚え出し、毎日余念なくそれを楽
しみに行っているうち、いつしかそれが彼の心の中で立派なモデルとなって、後年有
名な裸体の名画を作成した一画伯となったという話である。
吾人の訓練を要するものは意志に非ずして心なのである。
記憶力の良不良という事は、直接人間の全ての能力に密接不離のしょうちょうかん
けいのあるものである。有意注意を習性化するということは取りも直さず自己の人生
の全体を向上せしめるものだといえる。
老年者でも有意注意を習性化することに努力すると、青年に劣らぬような記憶力が
作られる。
「何事を行う際にも決して気なしに行わぬことを心がける」ことが最も適当な訓練
法である。