2016年10月30日

安岡正篤「活学一日一言」、中村天風「一日一話」。

   10月30日(日)  片言隻句



 われわれの生きた悟り、心に閃く本当の智慧、或は力強い実践力・行動力というよ
うなものは、決してだらだらと概念や論理で説明された、長ったらしい文章などに
よって得られるものではない。体験と精神のこめられておる、極めて要約された片言
隻句によって悟るのであり、又それを把握する事によって行動するのであります。



   真我は不滅である



 真我に内在する力はどんなものであるか。それは、絶対不可犯のものである。これ
に対し、肉体の有する力は相対的のものであり、火や水や大気などには敵することが
できない。

 しかしながら、真我は、全生命の本源的中枢で形象を有しない無形の一実在であ
る。故に、火にも水にも一切の何ものにも決して犯されない絶対不可犯のものであ
る。絶対的のものにはまた、絶対的の力のあるのは当然のことである。



   生きた学問



 すべて学問というものは、根から養分を吸収して、幹が出て、枝が伸びて、それが
分かれて小枝、その先端に葉がつき実がなる。そしてそれが又落ちて、肥料になっ
て、新しく芽を吹いてゆく、というように自然に伸びてゆくべきもの。自然に伸びて
いって、それが分裂せずに自ら一つの体系をなしてゆく。これでなければ本当の学問
ではない。われわれは先ず『大学』から始まって、四書五経を教わった。それがある
年齢に達した頃に、自分から面白いなあ、成程なあと考えるようになる。

 最初はあたえられたものだが、だんだんそれが生命化して来て、よし、一つ儒教を
勉強してみようと今度は自発的に読み出す。孔子の伝記をやるうちにどうしても孟子
をやらねば気が済まぬ、というようにだんだん枝葉に分かれて来る。そうすると孫
子・呉氏・韓非子などというものまで関連して来て、今度はそれに道楽をする。

 斯様に儒教を研究しながら、年季をかけて道楽していると、自然とあらゆる教学に
入って来る。桃栗三年柿八年と言うが、人間の学問はやはり二十年、三十年と年季を
かけて初めて生きた学問になる。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 07:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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