たとえば卑近な例が、腹が減ったから何か食いたい、どうせ食うのなら美味しいも
のが食いたいと、本能心が我が儘な欲求を起した時、理性心がそりゃいけない、第一
時代を考えろとか或は自分の身分を省みよ等々の批判を下しても、その時本能心が幸
いに理性に服従すれば何事もないが、でも食いたいのだから仕様がないと駄々を強く
こねだすと、理性心にはこれを統御する力が相対的だけに限度がある。だからその限
度以上に本能心が駄々をこねると、遂に理性心の敗北となり、本能心は時代も考えず
身分も省みずしたたかに美味美食に舌鼓を打ち、果ては食い過ぎて体を壊したり財布
の底を貧しくしたりして後日の悔いを作る。そしてそういう場合に截然とこれを統御
し得るものは真我の属性である意志の力だけである。
元来意志の力というものは、前述したとおり、真我表示の方便を行うために真我の
属性として真我から直接に発現する固有性能なので、本能心は勿論理性心もまた霊性
心をも完全に統御し得る権能と威力とをもっているものなのである。
ところが、この絶対的の事実と真理とを念頭に置かずに考査する人は、これまた前
述したとおりその発現が精神領域に於いて行われるという即ちその発動の際の状態だ
けを皮相的に観察して、意志というものは心の中に存在している純精神的のもののよ
うに考量し、その力もまた心から直接発現するものように誤量する。この点に意志と
いうものを解釈する際の寸法違いを生ずる大きな原因が存在しているのである。
そこで何故に意志というものが真我の固有性能として真我から発現するのかという
と、これを簡単に説明すれば、真我はもと霊魂という無形のものである。従って形な
きものがその表示を現実にするには何かの手段を必要とする。そこでここにその手段
として意志というものがその役割を行うために、その属性として真我に賦与されてい
るのである。
ところが、多くの人はこの実際消息を弁知せず、中には真我の自己表示を為すもの
は心なりと思い違いをしている、そのため縷々一般の心理作用と意志作用とを混同し
て考量するという間違いを惹起しているのである。