2018年02月22日

「研心抄」(中村天風)

   2月22日(木)  「心」とは何ぞや?



 が然し、何れにしても心の統御を完全にするのには、この意志の力を任意に然も強
く、いつ何時にでも発現し得るように習性づけねばならない。そして先ず本能心を適
宜に統御し正当に善導し、ひいては理性心の開発を正しく行い、且つ又霊性心の発現
をも現実に助長しなければならない。

 実際厳格にいえば、一切の心の働きは意志の力の発現する程度に即応していると
いってよいので即ち意志の力が強く発現すれば心の力もまた強く働き、意志の力の発
現が弱いと心の働きも弱くなる。

 故に結論的にいえば、意志というものは心は勿論、人生の活きるためへの羅針盤と
いってよい最高の資格を人生に対してもっているものなのである。

 もっと分かり易くいうならば、意志の力が現実に発現した時、初めて心に対し立派
な統率者命令者が出来た事になるがため、心が散漫な無統制の状態で働かなくなる。

 言い換えると、心というものを意志が作った鋳型の中へ流し込んで、その鋳型の通
りに心を作り上げるに等しい。

 一体人々の多くが吾が心を吾自身中々うまく自由に統御する事もまた働かせる事も
出来ずにいるのは、畢竟意志の力の発現を習性づけるという肝心な事に努力しないた
めで、心に何らの統率者も命令を与えるものもなく、ただ心の動くに任せて奔放散漫
にさせるからである。

 俗に、意馬心猿、という言葉があるが、これも要するに意志という馬さえ完全であ
れば、心猿如何に我儘で勝手の場所に行きたくも、所詮は意馬の赴く所に従わずには
おられぬこととなる。

 そこで幾度も言う通り意志の力を常住任意に自由自在に発現し得るよう習性づけな
いと、いざという肝心の場合に心を適当に善導する統率力が無になるために、心を完
全に操縦するどころでなく、かえって心の為に反対に翻弄され徒に煩悶や苦労を増加
して、犬や馬の幼稚な心の方がどれだけ良いか分からないと愚にもつかぬ嘆声を漏ら
さぬとも限らぬようにさえなる。

 但し特に付言すべき事は、意志の力と強情という事を混同しては絶対に不可という
ことである。それは丁度図々しいのと大胆という事を同一視するのと些かも変わらぬ
大間違いであることを、よく知るべきである。図々しいとか強情というような心理作
用は本能心の中に存在する心なので、意志とは微塵も関連のないものである。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 04:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月20日

「研心抄」(中村天風)

   2月20日(火)  「心」とは何ぞや



 たとえば卑近な例が、腹が減ったから何か食いたい、どうせ食うのなら美味しいも
のが食いたいと、本能心が我が儘な欲求を起した時、理性心がそりゃいけない、第一
時代を考えろとか或は自分の身分を省みよ等々の批判を下しても、その時本能心が幸
いに理性に服従すれば何事もないが、でも食いたいのだから仕様がないと駄々を強く
こねだすと、理性心にはこれを統御する力が相対的だけに限度がある。だからその限
度以上に本能心が駄々をこねると、遂に理性心の敗北となり、本能心は時代も考えず
身分も省みずしたたかに美味美食に舌鼓を打ち、果ては食い過ぎて体を壊したり財布
の底を貧しくしたりして後日の悔いを作る。そしてそういう場合に截然とこれを統御
し得るものは真我の属性である意志の力だけである。

 元来意志の力というものは、前述したとおり、真我表示の方便を行うために真我の
属性として真我から直接に発現する固有性能なので、本能心は勿論理性心もまた霊性
心をも完全に統御し得る権能と威力とをもっているものなのである。

 ところが、この絶対的の事実と真理とを念頭に置かずに考査する人は、これまた前
述したとおりその発現が精神領域に於いて行われるという即ちその発動の際の状態だ
けを皮相的に観察して、意志というものは心の中に存在している純精神的のもののよ
うに考量し、その力もまた心から直接発現するものように誤量する。この点に意志と
いうものを解釈する際の寸法違いを生ずる大きな原因が存在しているのである。

 そこで何故に意志というものが真我の固有性能として真我から発現するのかという
と、これを簡単に説明すれば、真我はもと霊魂という無形のものである。従って形な
きものがその表示を現実にするには何かの手段を必要とする。そこでここにその手段
として意志というものがその役割を行うために、その属性として真我に賦与されてい
るのである。

 ところが、多くの人はこの実際消息を弁知せず、中には真我の自己表示を為すもの
は心なりと思い違いをしている、そのため縷々一般の心理作用と意志作用とを混同し
て考量するという間違いを惹起しているのである。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 05:04| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月18日

「研心抄」(中村天風)

   2月18日(日)  「心」とは何ぞや?



 という事が事実であるということは、凡そ儕輩から傑出した程の人物を子細に観る
とすぐ分明する。彼等は一様に意志の力が頗る強い。即ちその強い意志の力で自己の
心は勿論人生の一切を完全に統御し、その結果よく阿蒙の群を抜いたのである。

 ところがある一派の学者の中には人間の心の中には本能心よりより以上階級の高い
理性心というものがあるから、本能心はこの理性を以て統御支配するのがよいと説い
て居る人もある。が然しこれには断然私は不同意である。

 というのは究極すれば理性心には完全に本能心を統御する力がないからである。

 即ち理性心というものは、前述したとおり事物事象に対する推理推考を司る心で、
従って事物に対する是非、善悪、曲直、邪正という事を批判分別する働きのみを固有
する心で、従って絶対的の統御力は保有していない、所詮は相対的のものなのでる。

 ところがこの相対的の批判力しかない理性心で本能心を統御しようとすると、丁度
手の付けられない我が儘な駄々っ子を理屈ばかりを小喧しくいう倫理の先生が、無理
やり自分の気分の欲する型の中に入れようとするのと同様で、結局は絶えず理性と本
能との衝突を招来し、より一層人生苦悩を増さしめるという無益な精神葛藤を惹起す
る結果が生ずるだけである。

 世にいう理智階級者が常に理性と本能的感情との相克に混迷するのは、このような
事実事由があるためである。

 否真理の上から論断すれば、一見本能心を統御し得るかのように考えられるこの理
性心も、やはりこれ又意志の力の統御の下に操縦せらるべき被統御心なのである。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 06:56| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする