2018年04月23日

「研心抄」(中村天風)

   4月23日(月)  第一節 精神統一に関する理解



 第二の有意注意というのはこれと全く反対なので、即ち特に意識を用いて自己の特
定した事物に向かって注意を振り向けるという、言い換えると能動的の注意状態をい
うのである。

 第一の無意注意の方はどんな人でも、否人間以外の他の動物と雖も敢て特に修練す
る必要なく、本能的に為し得るいわば本来的の注意であるので、これは殊更訓練の必
要はない。吾人の訓練を必要とするのは第二の有意注意なのである。

 事実に於いて多くの人は、普通の場合自己自身に直接感興を催さないような事柄に
は中々容易にその注意を振り向けようとしないものである。従ってそういう場合に
は、粘り強い注意をそれらのものに振り向けるなどという事は出来ない。また無理に
振り向けようと努力しても、一定の訓練を経ていない心だと、そういう場合ややもす
るばその心の中に頻々として次から次へと続々と発生して来る雑念や妄念のために他
動的刺激を受けて、第一の無為注意の方が盛んに発動して肝心要の有意注意の方は攪
乱されてしまう。

 こういうわけで何ものに対しても粘り強い注意を注ぎ得る心を作るためには、有意
注意の訓練を正当に行修しなければならないのである。
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2018年04月16日

「研心抄」(中村天風)

   4月16日(月)  第一節 精神統一に関する理解



 そもそも「粘り強い注意」というのは、心の前に現れてくるいろいろの事柄や問題
を、一々同一の強さを持つ注意力で極めて円滑事由に応接交渉する状態をいうので、
それは丁度探照灯を必要の方向に同一の光度で自由自在に回転して、暗中の物体を照
見するのと同様の状態である。ところが「執着」というのは、心の前に現れた事物事
象にその心が捕捉され、容易に他にその心を振り向け換える事の出来ない状態をい
う。言い換えると、心が一事一物に固着して他方に転換ができない有様をいうのであ
る。このようにこの両者は実は相似て全く非なる断然別箇のものなのである。

 それならば真に「粘り強い注意」というものを習性化するには、どんな訓練をその
心に施すべきかというに、それには先ず注意という事に関する正しい理解を必要とす
る。そもそも注意というものには

  一、無意注意

  一、有意注意

 という二つの区別がある。

 そして第一の無意注意とは、敢て特に意識を用いて注意を振り向けようとしないで
も自然的に注意の注がれる心的状態の事なので、判り易くいえば突然もしくは偶然に
吾人の心に映じる何かの印象事物に促されて生ずるいわば他動的の注意の事をいうの
である。たとえば何ものにも特に注意を振り向ける事なしに、寧ろ無心の状態で道路
を歩いている際などに、突然横合いから急激に何か珍奇な服装でもしている者が飛び
出したとする、すると誰でも咄嗟にその飛び出したものに.注意を振向けるものであ
る。この注意状態を無意注意という。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 05:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月09日

「研心抄」(中村天風)

   4月9日(月)  第一節 精神統一に関する理解



 事実に於いて注意というものが粘り強く結合され得るようになると、観念というも
のは自然的に統合され、その結果精神は当然統一される。そうすれば意志集中も当然
現実化するため、心の一切はその集中された意志から発動する強い力で完全に統御さ
れ得るようになる。そしてひいて汎き意味に於ける自己統御というものも期せずして
完成される。

 恰もそれは宇宙間に遍満存在するエレクトロンやプロトン等の電気要素が結合結集
すると、真に驚異に値する偉大な力となり、或は光となり又熱となるのと同様である
が、これを現実に具体化するには正確な設計と厳密な装置とをもつダイナモを必要と
する。万一ダイナモの設計なり装置に完全を欠くならば、到底所定の電気は発現すべ
くもない。

 そこで真我直属の意志の力というものを現実に発現せしめるダイナモに相当するも
のは精神である。従ってこの意味に於いて精神統一が必須とされるのであるから、そ
の要素の現実完成のために、吾人は平素人生に活きる際その精神を行使するのに、常
に粘り強い注意を何もの何事に対しても注ぐように不断に心がけるべきである。然
し、くれぐれも誤解混同してはならない事は「粘り強い注意」という事と「執着」と
いう事である。

 というのはこの両者は皮相的に見ると頗る酷似して居る心的状態であるがため、
往々混同誤解され易い傾向が顕著にあるからである。ある人が非常に囲碁に熱中し夜
寝て夢にまで見る程で、従って昼間も囲碁の事がその頭から離れず何事も手につかず
宛然囲碁に憑かれたようになり、そのため度々大事を忘れたり、持ち物を失ったり、
果ては文字通り囲碁のために寝食さえも忘れるという状態になった。友人たちはその
熱中ぶりを驚嘆し、実に熱心驚くに堪えたりと賛辞を呈して褒めそやしたというが、
これなどは断然粘り強い注意というべきでなく、いわゆる執着に類すべきものといわ
なければならない。
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