2017年05月15日

「真人生の探求」(中村天風)

   5月15日(月)  心身一如



 人間の手で作られたものにも、こうした法則=道 がある。まして人智を遥かに超
越凌駕している造物主の作為になる活きる命を与えられた生物には、その活きること
に対する法則=道 というものは、絶対に厳格な状態で存在している。そして万一、
その活きる道=法則 に背反すれば、その生命存在は到底確保することを許されな
い。簡単な事実が、草食動物である牛や馬が、肉食動物である獅子や虎の活き方をす
れば、直ちに命を失うのを見ても明瞭である。

 このように、生命機能が人間より劣っている禽獣においてさえ、その生命法則は、
豪末仮借されない厳格さをもっていることを気づいた時、更に万物の霊長である人間
においては、より一層瞬間刹那でも犯すことの許されない法則=道 が、その生命を
活かすに当って厳存しているということは、そう深く考えるまでもなくはっきりして
いる筈である。

 ところが、それをそうと気づかず、己の意の赴く儘に、勝手気儘に、或は肉体を偏
重し、或は精神だけを重視する人の多いのは、察する処、その種の人々は、人間は万
物の霊長だから、その位の我が儘は特権的に許されているかのような、大変な間違い
に陥っているのではないだろうか?

 然し、そうした考え方は、どの点からいっても、余りにも独断だといわねばならな
い。

 第一それでは、絶対に真理が許してくれない。その証拠には、必ずそういう人は、
生存の中途、度々忌まわしい運命に脅かされたり、または病苦に呻吟するようなこと
になる。要するに道は尊厳にして犯すべからずである!!
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2017年05月14日

「真人生の探求」(中村天風)

   5月14日(日)  母の日  心身一如



 生命形成の二大内容素ともいうべき心と身とは、どんな場合にも、不即不離、絶対
不可分の存在である以上、一方的に偏視偏重したのでは、既にそれが根本的に不合理
な生命操作に陥っていることになる。

 であるから、結論的にいえば、生命内奥の潜勢力という、人生の一切をより良く解
決してくれる偉大な力の発現は、人間を、人間の命のありのままの姿である心身一如
の状態を確保するため、心身を統一して生活せしめれば、期せずして当然発現して来
るのが、犯すべからざる真理なのである。

 それでは、心身の統一された人生生活様式とはどんな状態かというと、曰く、

 @ 精神を「精神生命の法則」に A 肉体を「肉体生命の法則」に順従して生活
することである。分かり易くいえば、心を心の道に従わせ、体を体の道に従わせて活
きることである。

 およそどんなものにも、道=法則 というものは厳として存在している。そして 
道=法則 を無視して、ものそのものの存在は確認されない。

 たとえば、ここに正確な設計の下に組み立てられた高速度機関車があると仮定す
る。然し、この機関車を設計通り能率を発揮せしめるには、この機関車に相当する規
定通りのレールを必要とする。どれほど高速度発揮の可能力があっても、レールのな
い処では所定の半分も、その能率を発揮することは出来ない。
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2017年05月13日

「真人生の探求」(中村天風)

   5月13日(土)  心身一如



 そもそも人間の生命は、どういう内容素をもってつくられているか? というに、
多くいうまでもなく、霊魂を中核として、精神と肉体とが、密接不離一如の状態の下
に結合されて作られている。即ち心と身とが打って一丸とされたものが、人間の命の
真の姿である。

 由来、人生とは、その生命の活きている事実に対する名称である。従って、正当な
人生は、正当な活き方からのみ獲得されるということも、容易に合点の出来ることで
ある。心身の統一された活き方が、人間の本来の面目に即応した純正な生活法である
と論断するわけも、またこの点にあるのである。即ち、心身が統一されて営まれる生
活法は、人間の生命のありのままの姿である心身一如という厳粛な事実に、正しく順
応した活き方であるからである。

 ところが、前に述べた現代人の多くがおこなっている生活法は、どれも精神か肉体
かの何れか一方に偏傾、偏重されている。これもまた多くいう必要もないことで、二
つのものが相結合し形成作為されたものを、ただその一方のみを重視重用して、完全
の結果が招来される道理がない。

 これはいくらも簡単な例証で説明の出来ることで、たとえば一挺の楽器から微妙な
音楽を奏で出すには、楽器のことも入念に考査注意しなければならないが、同時に、
その楽手の技能ということも絶対に不可分の条件として、これまた入念に考査されな
ければならない。どれほど楽器だけを充分吟味しても、楽手の技能を無視しては、完
全な音楽が演奏されないのと同様、反対に楽手だけを吟味しても、楽器を軽視したの
では、同じく到底完全な音楽は味われない。要するに、楽手と楽器とが、一如に考え
られなければならぬ、即ち統一されなければならない。人生また然りである。
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