2017年09月09日

「真人生の探求」(中村天風)

   9月9日(土)  重陽(五節句の一つで、菊の節句のこと)

              (ホ)正義の実行



 これもまた難しい事ではない。寧ろ容易なことだといいたい。正義の実行などとい
うと、何か頗る難しい、普通の人が容易に行い得ないもののように思ったり、中には
余程学問をするとか、または修養の功を積まない限り、正義そのものの本義を把握す
る事が出来ないかのように推定する人もあるかも知れぬが、決してそうしたものでは
ない。

 要は各人の、本心良心に悖らぬことだけを標準として、行動すればそれでよいので
ある。

 由来、本心良心はだれにもある。極言すればどんな悪人にもある。これも難しい事
ではない。すぐ分かることだが、何か道ならぬことをしたり、人にすまないことを
言ったりした時、何となく後ろめたく気咎めされるものを誰でも感ずる。それがつま
り本心良心があるからである。だから何事でも、この本心良心の咎めを感じないこと
のみを、言行に表現するように心がけるのである。

 そうすれば、後日に後悔したり、卑屈になったりすることがなく、人生常住春風駘
蕩たりで、日々を過ごし得る。

 古語にもいう。

 「自ら省みて疾ましからずんば、千万人と雖も、吾れ行かん」 と―――――。
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2017年09月07日

「真人生の探求」(中村天風)

   9月7日(木)  白露(朝夕涼しくなり、草木の葉に宿る露が白く光るとい
う意味で白露と言う。)   取り越し苦労厳禁



 これは何れも取り越し苦労の無価値有害なことを、風刺訓戒したものでなくて何で
あろう! 取り越し苦労と同じ心理状態で、無駄な心配をすることを杞憂というの
は、何人も御存じのことと思う。これは昔中国に杞の国というのがあって、その国に
三人の、極端な取り越し苦労をする男があった。その一人は、朝から晩まで、一日中
心配そうに空のみを見て歩き回っている。またそのもう一人の方は、これまた一日中
心配そうに地面のみを凝視して歩き回っている。ところがまた他の一人は、その両人
の後ろから、心配顔で、両人の顔を代わる代わりに眺めつつ、歩いている。一体この
三人は何を考えていたのかというと、空のみ見ている男は、いつ何時この大空が上か
ら落ちて来やしないか、そしたらどうなるだろう? と心配になっているし、地面を
凝視して歩く男は、この大地が急にどかんと底知れぬ処に陥没したら、どうなるであ
ろう? と心配しているし、両人の後ろからついて歩いている男は、一体この二人の
男は、こうして朝から晩まで何もしないで心配して歩いているが、この男たちの行く
末は、しまいには、どうなることであろう? と心配していたというのである。そこ
でこれを杞の国の三憂といって、愚者の標本とした。それが略称されて、無駄な気苦
労を杞憂というに至ったのだそうである。何れにしても、取り越し苦労は、愚にもつ
かぬことで、かりにも心を研ぎ上げようとするものの為すべきことでないと、厳かに
自らに誓うべきである。そうかといって何事も考えるな、やりっ放しに放り出して置
けというのではない。消極的観念で考えることを断然止めて、考えねばならぬ場合
は、積極的観念で思索すべしというのである。

 言い換えれば、積極観念で行われた思索は、概ね整然として、無駄なエネルギー消
耗を招来するような取り越し苦労にならないからである。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 05:24| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月06日

「真人生の探求(中村天風)

   9月6日(水)  取り越し苦労厳禁



 成程一応は御尤ものようだが、それは少し考え方に寸法違いがあるといえる。元来
古人のいった遠き慮り云々というのは、それは、明晰の頭脳で透徹した判断を下すこ
とをいったので、然も頭脳の明晰ということは、消極的観念をもつ者には、殆ど皆無
といってよいのである。何故かというと、消極的観念それ自体が既に頭脳の混迷を招
き、その結果論理思索に不統一な葛藤を生ぜしめるからである。従ってそうした心で
考えたことは、遠き慮りどころでなく、近き判断さえ完全に出来よう筈がない。そし
て、第一取り越し苦労がおおむね多くの場合、後になって見ると、さほど気にかけて
心配しいしい考えて、苦労しなくってもよかったというような、俗にいう案ずるより
産むが易いといったようなことであるのが、これまた殆ど通例である。私はいつも、
取り越し苦労をする人のことを、闇の夜道に提灯を高く頭上に掲げて、百歩二百歩の
先の方を、何かありはしないかと気にして歩くのと同じだといっている。静かに足元
を照らして歩めば、躓きもせず、転びもしないが、足元を見ないで、遥かの遠方のみ
を気にして歩けば、いつかは石に躓いたり、溝に落ちたりする。心もまたこれと同様
で、みだりに、未だ来たらざる将来のみに振り向けて肝心の現在を疎かにしたので
は、到底、心そのものの働きさえ完全に行われぬことになる。

 古訓にも、「心は現在を要す。過ぎたるは追うべからず。来たらざるは向かうべか
らず」。というのがある。

 また古歌にも「さしあたる、その事のみをただ思え。過去は及ばず、未来知られ
ず」というのがある。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 06:04| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする