2018年01月08日

「研心抄」(中村天風)

   1月8日(月)  成人の日  「我」とは何ぞや?



 これあるが故に、即ち「我とは何ぞや」ということを完全に理解するには、特殊の
心的修練を施さぬと容易に獲得されない特殊智識という基礎的のものを必要とする。

 古来、悟りを開いた人のことを覚者とか又は哲人というが、これは要するにその種
の人は、蓋し「われ」なるものの本体が何であるかを、特殊の心的訓練を施して、そ
の心をよく霊的境地に置くことを得せしめ、この信念的自覚念を発動して知得し得た
人なのである。故に哲人覚者と称される人々は、一様に何事を思量する時と雖も、そ
の心が霊的境地に置かれてあるために、断然凡庸の考えとその類を異にし、人事世事
その他一切の事象に対する考察も推定も正確で徹底している。

 従ってその種の人々の事を、大悟徹底の人というのである。

 そして、心が霊的境地に置かれて居る人々には、その心に厭世観も又煩悶も苦労も
絶対に無い。まして神経衰弱の如きは夢にもない。

 即ち常住如何なる場合にも、又如何なる事があっても、真に大定盤石、いわゆる文
字通り、安心立命の生涯に悠々と生活している。

 というのは、心が霊的境地に置かれて居る霊的階級者は、本能階級者や理性階級者
と異なり、心や肉体を、「自己=われ」というものの活きるのに必要な方便を行う道
具として行使し、決してこれを自己そのものとは誤認していないからである。

 そして理性やそれに付随する相対的の智識というものだけでは人間というものの一
切を到底完全に解決する事の不可能である事を悟って居る。そのため一念心的修練を
施して精神を訓練し、又これを啓発して恒に霊的境地においてその心を使用するとい
う最も正当な人生真理を実際化し、「われ」というものの生命の活きるためへの方便
を行う道具である心や肉体を巧みに行使して、人生の一切を処理解決している。

 従って、彼等はみだりに病みもせず又、徒に迷いもせず、況や悶えもない。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 05:16| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月07日

「研心抄」(中村天風)

   1月7日(日)  七草  「我」とは何ぞや?



 然らばそも「真我」とは何か?

 静かに、そして深く考査を掘り下げて思量してみよう。

 およそ人間の生命の中には、心及び肉体よりも一段超越した、然も厳として存在す
る実在のものが一つある筈である。

 それが、即ち、「真我」なのである。

 そもそもこの実在のものというのは、それがかくの如きものであると、形象や色彩
で示現する事の出来ないもののなので、ただ人々のいわゆる信念的自覚念で思量する
より以外に知るよしもないというものなのである。

 従ってこれあるがために多くの人がともするとその注意をおろそかにするがため
に、「真我」の消息を正確にその意識の中に把握していないのであろう。

 加うるに、この信念的自覚念というものは、ただ単なる理性の力のみでは何として
も獲得する事の不可能のものなので-----勿論、理性の力もある程度までは相当の関
連性を持ってはいるが、由来理性の力というものは、哲学的見地から論評すれば、心
を理性的境地に置いた時に発動するものなので、そして理性の力は恒に批判の上にの
み働く固有作用があるため、この自覚念に最も必要とされる肝心の信念というものが
容易に無条件で発動しないからである。

 そうかといって、無論この自覚念は一般動物と同様にその心が本能的境地に置かれ
てあったのでは、なお更、絶対に発動するべくもない。

 要するに、「われ」なるものの本体たる実在のものを、わが意識の中に完全に把握
思量し得る信念的自覚念というものは、心を霊的境地という特別の境地に置かぬ限り
は決して発動せしめる事が出来ないものなのである。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 07:37| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月06日

「研心抄」(中村天風)

   1月6日(土)  「我」とは何ぞや?



 そして本能階級の人々は、口に吾が心とか吾が精神とかとはいっているものの、そ
の吾が心とか精神とかといっている心というものは、肉体の要求や五官の感覚から構
成されて本能的に発動する心を指していっているので、従ってこの種の人々は所謂心
というものを、極言すれば肉体に付属した即ち、肉体よりもより低級のものだと思惟
している。

 そしてこの自己意識というものは、真理の上から厳格に論断すれば、極めて価値の
ない低級のものだといわねばならない。何故かというとこの自己意識たるや、即ち、
野蛮蒙昧の民族のもつ自己意識ともいうべきで、かりそめにも文化の進歩した時代の
人間のもつべき自己意識ではないからである。

 従って、厳密にいえば、こういう自己意識を万一もつ人があるならば、その人は未
だもって、真の文明民族とは言い得ないのである。

 本能階級者は

  ○肉体=われ、心はその付属物

 理性階級者は

  ○心=われ、肉体はその付属物

 と考定している。

 苟も吾人がその人生を大定の境涯に活きるには、よりもっと高い真正の自覚に突入
して、正しく「われ」というものの本体をその意識の中に把握せねばならない。

 
posted by 林田カイロプラクティック院 at 04:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする