2018年01月05日

「研心抄」(中村天風)

   1月5日(金)  小寒(陰気深く寒冷一段と厳しくなるので小寒と

              いう。俗にこの日を寒の入りという。)

     第一節 「我」とは何ぞや?



 然し、この事柄は畢竟するに、人=自己の本体、というものが、どんなものである
かという事が先ず第一に判然しない限りは、完全に理解の出来よう筈のない事なの
で、一体多くの人がややともすると、心や肉体を、人=自己なり、と思い違いをする
のも所詮はその原因がこの点にある。そしてその結果この生命を完全に活かす為にと
生命に賦与された要具を正確に行使する事が出来ぬという事になり、ひいて心身を一
如にして活かす、換言すれば心身を統一するという即ち完全統御法が行われず、とど
のつまりは心ならずも病んだり或は不運に陥るという下らぬ人生を作為するという事
になるのである。

 何事と雖も、原因あっての結果なので、病むのも不運になるのも厳としてそこに原
因があるのである。

 一般の人々が、「自己=われ」という事を一体何を目標として言っているかという
と、凡そ下の二種類のいずれかである。

 即ち「物質的の肉体」を目して「われ」と思うのと、今一方は「非物質の精神」を
目して「われ」と思うという考え方、而して前者の様な考え方をする人のことを哲学
的に言うと、本能階級の人と称し、後者の様な考え方をする人のことを、理性階級の
人という。

 そして本能階級に属する人は、前記のように目に見える肉体を自己と思うがため
に、従って真我の本体も肉体と考え、理性階級に属する人は、目に見えない心を自己
なりと思うがために、真我の本体もまた心であると考定するのである。



 
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2018年01月03日

「研心抄」(中村天風)

   1月3日(水)  第一節 「我」とはなんぞや?



 勿論、一般動物にも意志あり自覚念も理解力もあるには相違ないが、それは何れも
人間のそれとは凡そ比較にならぬほど、量に於いても又質に於いても低調のものであ
る。

 事態正にかくの如くで、人間の生命の中にはこの宇宙間に存在して居る最高のもの
から最低のものに至る一切のものが賦与具有されているのである。

 然しここに最も注意を要する事は、「我」の本質を正確に自覚するには、これらの
肉体や心の組織の中に具有されて居るいろいろの特徴的なるものを、これを直ちに自
己=我なり、と、考定しては断じて不可なりという事なのである。分かり易くいえ
ば、心や体を「われ」と思ってはいけないという事なのである。

 というのは、肉体は勿論、心と雖もそれは決して自己ではないからである。

 心や肉体が自己でないというのは、心や肉体が人そのものではないからである。

 それは、心や肉体というものは、人がこの世に活きるのに必要ないろいろの方便を
行うための道具という関係を、人間それ自身に対してもって居るものなのである。

 心や肉体は、人の生命の本体が広義におけるその生命存在を完全にするために行使
する要具として各々個体生命に賦与されて居るものなので、従って絶対に、人=自己
 それ自身ではないのである。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 08:37| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月02日

「研心抄」(中村天風)

   1月2日(火)  第一章 自我本質の自覚



 第一節 「我」とは何ぞや?



 「我」とは何ぞや?

 静かにわれ自信を顧みて考える時、諸君は果たしてこの問題をどうに解釈される
か?

 勿論それを相対的に考えれば、「我」とは人間なりとか、或は「我」とは万物の霊
長なりとか、何人と雖も即座にこたえられる事と思う。

 然し、そう答えることに依って自分自身ほんとうに安心した気持ちになれるであろ
うか?

 ただ単に「我」は人間なりとか或は、万物の霊長であると考え得ただけで人生が如
何なる場合にも------即ち病が生じようと、悲運に陥ろうと、些かも狼狽もせず、又
悲観もせず、いわゆる安心立命の大定心を得られるのなら、人生位簡単なものは無い
という事になる。

 が、中々そうは行かないのが人生である。言い換えれば、そんな簡単な解釈で人生
というものはそう易々とは解決出来得ないものであるからである。

 人間この世に活きるのに、「我とは何ぞや」という事を正しく理解していないと、
人生を完全に活きるのに何よりも必要とされる、人生観というものが、これ又正当に
確立されない。

 そして人生観というものが、正当に確立されないと、その当然の帰結として、実際
生活に先決的に重要な自己統御という大切な事がどうしても完全に出来得ないことに
なる。

 言い換えれば「我とは何ぞや?」という事が、正しく理解された時、初めてその正
しい理解が、確固不抜の人生観を確立し、その確立された人生観が、一切の内的誘導
力となって、自己を完全に統御し得るに至るのである。

 「我」の本質の自覚を徹底せしむるには、第一に

○自己と心との関係

 と並びに

○自己と肉体との関係

 というものを正当に解決し、そして「真の生命の如何なるもの?」という事を理解
することをさきにしないと、この自覚を完全に把握する事は不可能なのである。

 人間というものの生命の中には、この宇宙の中に存在するありとあらゆる一切のも
のが、ことごとく存在賦与されている。この玄妙不可思議な事実が、その奇蹟に類す
る一大事実が、人間なるものが万物の霊長たる特殊の点であるのである。

 然らば、如何なる玄妙不可思議の事実が人間の生命に存在して居るかというに、由
来この宇宙なるものは、いわゆる物質なるものに依って形成されて居る。そしてその
物質は大別して、動物、植物、鉱物の三種に分たれて、更に化学者はその性状の上か
らこれを無機、有機の二者に区別して居る。

 然るに吾人人類の生命の中には、以上の一切の物質が、各種の形態の下に悉く存在
して居るのである。

 第一に肉体を組織している筋肉とか骨とか、又は血液、リンパ液というような物質
は、その大部分が鉱物の有する生命と同様のものである。

 更に、肉体の営んでいる生理的諸般の作用を看ると、それは一般植物の有する生命
作用と同様のものを行っている。

 それからいろいろの情念的方向を観察すると、これは一般動物の生命に存在するも
のと殆ど共通的のものである。

 然しこれらの消息は一般動物の生命にも存在して居る現象事実なので、別に不思議
とするには足りないが、叙上の事実以外に断然他の動物の生命に見出すことの出来な
い一段高い特殊的特徴が吾等人類の生命の中に存在しているものである。

 それは一体何かというに、曰く「高等優秀な精神機能」即ちこれなのである。

 詳しくいえば、その精神機能は無形の力ある、意志というものに依って操作せら
れ、極めて優れた、自覚と理解というものを作用している。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 05:39| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする