2017年09月05日

「真人生の探求」(中村天風)

   9月5日(火)  (二) 取り越し苦労厳禁



 やれこれがこうなったら、ああなるであろう? そうなったら、一体どうなるであ
ろう? 等々と。然もそうした取り越し苦労という一種の考え方は、いずれも皆それ
が消極的観念から思考されるものなのだから、いつまでいくら考えても、決して自分
の安心するような積極的方面に振り向け変えられず、ただ徒に、思えば思う程に、考
えれば考える程に、その思索は独自的の推察や、歪曲の断定で、混然とした紛糾錯綜
のものとなり、いよいよ出でていよいよ迷い苦しむという結果を、吾れと吾れ自ら
作ってしまうという始末になる。そして、その間心のエネルギーはどしどし消耗され
ているのに気がつかない。中にはそのために食欲不振になったり、夜の睡眠までも自
らの心持で妨げて、不眠状態に陥る人さえある。世にこれ程滑稽な話があろうか。何
故かというと、まだ現実に現れていない自己の想像や推定で、生命確保に必枢なエネ
ルギーを消耗すというのは、痴愚以上のものである。何のことはない。自分で自分の
心のスクリーンにお化けの絵を描いて、自分で驚いたり怖れたりしているのだから、
実に噴飯至極というべきである。

 こういうとまた、そりゃ他人のことならそうもいえようが、自分自身に降りかかっ
ている事情を、馬鹿か無神経でない限りは平然としていられるものではない。まし
て、古人もいった、「遠き慮り無くば近きに憂いあり」 と、従って考えざるを得な
いのが当然だと。
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2017年09月04日

「真人生の探求」(中村天風)

   9月4日(月)  (二) 取り越し苦労厳禁



 これも、文字通りの消息であるから、すぐ諒解されることと思うが、およそこの取
り越し苦労というもの位下らぬものはない。それは徒に、心のエネルギーの消耗率を
高めるだけで、何の得る処もない全損的行為であるからである。

 ところが、世の中の人の大部分は、殆ど共通的に、この価値のない人生に損失を招
くとも利益を少しも見ることの出来ない取り越し苦労というものを、恰も、しなけれ
ばならない人生行事のように思い、いろいろの屁理屈をつけて行っている。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 05:37| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月02日

「真人生の探求」(中村天風)

   9月2日(土)  (ハ) 対人精神態度



 これは文字通り、自分以外の人に対する時の、自分の心の態度のことである。

 多くいうまでもなく、人間である以上、山中にでも隠遁の孤独生活をしていない限
りは、絶えず自己以外の人と相接しまた交際する。がその時である。場合の如何をと
わず、また事情の如何をとわず、積極的の心を断じて崩さないように心がけることで
ある。即ち、どんなことがあっても、心の明るさと、朗らかさと、活き活きとした勇
ましさを失わないように、心がけるべきである。

 そして、特に不健康の人や、悲運の人に接する際は、鼓舞、奨励以外の言葉は、口
にしないように注意することである。

 世の中には、人の身の上話や、不運の話などを聞かされて、同情の極み、果てはそ
の人と一緒になって、悲しんだり泣いたり怒ったりする人がある。そして相手方の人
も、そういう人を、何か大変思いやりのある話の分かる人のようにさえ思う。

 然しこれは、極めて皮相的な考え方で、そりゃ勿論同情ということは、人間の為さ
ねばならない当然の美徳ではある。が然しその美徳である同情の垣を超えて、相手方
の気持ちの中に引きずり込まれて、同じように、消極的な暗い気持ちにならなければ
ならないという、間違った義務が一体どこにあるであろうか? ましてそのために、
ただ一人の人生事実のために、一人ならず二人までが、消極的の気分になり、延いて
その周囲の雰囲気まで消極化してしまうという事実結果があるということを知ったな
ら、かりそめにも真理を人生の宝とするお互いなら、これこそ誠に大きい失策だと気
づく筈である。

 だから勿論、不健康の人や薄幸の人々には、大いに同情すべきであるが、同時に真
の同情の発露として、適当な鼓舞と奨励とをその人々の心に与えてやり、少しでも、
その人々の心に積極的の暗示となるものを、心の糧として贈ってやることこそ、最も
尊厳な人間的行為である。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 05:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする