2017年05月30日

「真人生の探求」(中村天風)

   5月30日(火)  精神本位の方法



 然し、そうした手段で、心の動乱が処置出来るものなら、人生は頗る簡単だが、決
してそんな生易しいものでないのが人の心の動きではあるまいか。否、邪念を抱き不
正を思う心が、人生に良くない悪いことだということは充分に心得ていても、ともす
るといつしか心に邪念を抱き、不正を思う心が動くので困るのではないか。悪いか
ら、良くないからと、直ちに手の裏を返すようにこれを抑制したり禁止することが容
易に出来るものなら、人誰か煩悶に陥らんや、煩悩に苦しまんやである。またそれが
百歩を譲って出来得るとしても肉体を軽視没却した方法では、生命の全般のよく平衡
を確保することは到底望むべくもない。

 この理由があるために、肉体本位の方法も、精神本位の方法も、ただその一方だけ
を重視したものでは、理屈はどうでも、肝心の人生解決の核心ともなるべき生命諸般
の力が、完全に充実しないから駄目であるというのである。即ち、どの点から論じて
も、心にも偏せず、肉体にも偏せざる、換言すれば、生命のそのままの姿である心身
一如に則った方法でなければ、到底所期の目的は達し得られない。またそうするに
は、前に述べた通り、心を心の道に、肉体を肉体の道に順従せしめた、心身を統一し
た活き方を行うのでなければ不可能である。
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2017年05月28日

「真人生の探求」(中村天風)

   5月28日(日)  精神本位の方法



 他方において、更に心=精神 のみを本位とした方法にも、決して無条件では賛成
の出来ないものが多い。というのは、心だけを本位とする方法では、往々肉体生命を
軽視するために、心身相関の関係がややともするとその徹底を妨げる。その上精神本
位の方法は、修養的のものでも、宗教的のものでも、おおむねその行入共に頗る困難
のものが多い。

 現に、錬心上一番の捷径だと、古来から呼ばれている座禅行の如きでも、一見入る
に易きもののようであるが、よくその三昧得道の妙境に達入する者果たして幾人かと
いってよい程、目的の彼岸に深到することは、容易でない。それもいつでも、随時随
所打坐瞑想し得る余裕のある時間をもつ人なら兎に角、日常忽忙たる人生に応掌する
者には、初歩入門すら決して容易でない。尤も座禅の必要は打坐に非ず、要は平常の
刹那刹那に在りと禅僧は説いているが、それが中々凡人には、そうはうまく直入会得
が出来ない。であるから大抵は徹底せずして止めてしまうか、さもなければ俗にいう
野狐禅になり終わる。

 何れにしてもこのような事態であるために、在来の精神本位の方法は、説は洵に良
しといえても、その応用価値が、普通の人生に携わる人には、容易に味われないとい
う、都合の悪い事実が実際においてある。のみならず、大抵の方法が、心の動乱の抑
制禁止ということに重点を置いてあるのは、一段と考えさせられる問題である。即
ち、邪念を起こすことは悪いことだから、この発動は必ず抑制せよとか、不正を思う
心は修業の障りであるから、断じてこれを禁止すべしというように、戒律的の言葉
で、心の動乱を処置させようとする。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 06:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月27日

「真人生の探求」(中村天風)

   5月27日(土)  肉体本位の方法



 考えるべきは実にこの点である。お互いが、複雑多端なこの人世に人として活きる
時、その刹那刹那の人世事情の如何に依って、その心が或は強くなったり、或は弱く
なったりするようでは、人生の行路を突破することが出来るであろうか? かてて加
えて人の世はいつ何時、健康や運命がどうなるか分からぬといってよい位、変化変遷
の多い、いわゆる有為転変の常ならぬ世界である。然もそうした人世に活きるのに、
相対的の強さしかない心では、到底貴重な人生を任すことも、これを頼みとすること
もできない。
posted by 林田カイロプラクティック院 at 05:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする