尤もこういうと、さあそこだ、古語にも、「健全なる肉体に非ざれば、健全なる精
神宿る能わず」というのがある。だからその人生の重要問題たる健全の精神も、先ず
肉体の健全を第一に企図せねばならないと。勿論これもたしかに一理ある言葉として
敢て否定はしないが然し更に深く考えねばならぬことは、果たして然らば、肉体の強
健な人は、共通的に皆頼もしい「強い心」を保有しているか?
どうか? という現実問題である。
詳しくいえば、肉体の強健な人は、一様に、どんな人生の銀難辛苦に際会しても、
またどんな悲運や大事に直面しても、豪末もその心を動揺せしめず、「晴れてよし曇
りてもよし不二の山」というように、事ある時も事なき時も、いつも明鏡止水、些か
も撞着を感じない強さの心をもっているか、否かという現実問題である。然し遺憾な
がら、否と答えねばならぬ事実の方が頗る多いのではなかろうか? 実際に於いて、
肉体は強健でも、案外臆病の人がある。かと思うと、頗る神経質の人もある。また僅
かのことにも、慌てたり、驚いたり、これを気にしたり、悲しんだり、怒ったりする
というように、人生周囲の事物事象に纏綿として心を動乱せしめている人もかなりに
多い。これは要するに、心の強さが充分作られていない立派な証拠ではあるまい
か!!
私の知人の中にも、運動家もあれば、武術家もいる。また拳闘の選手や力士などが
いるが彼等は、一様に立派な強い肉体をもっている、が然しその心はというと、その
肉体に比較すると案外弱いものが多く、重要な試合や競技のある時など、その前夜
往々安眠の出来ないなどという人さえある。
偶々こうした簡単な例証から考えても、肉体本位の方法だけでは、心まで強くする
という理想的の効果は、獲得することは出来ないということが明瞭に理解されると思
う。
否、肉体本位の方法のみでは、相対的の効果は獲得できるが、到底絶対的効果は獲
られないというのが真理である。
だから、万一肉体本位の方法で、心まで強くなり得たという人があっても、そうい
う人の心の強さは、大抵肉体の強い間だけの強さで、一度肉体の強さを失って病にで
もなれば、忽ちその心の強さも、これに比例して失われてしまう。