即ち、絶対真理を説明したものと、今一方は、こうもあろう? という推定仮説に
科学的理論思索を施して説明したものとの二種類である。前者は、確かに尊敬すべき
偉大な智識であるに相違ない、が然し後者は、ただその説明態度が科学的だというだ
けで、それが果たして絶対的真理であるかどうかは、いわゆる未知数のものである。
ところが、その未知数圏内のものも、科学的という言葉に重きを置いて、絶対真理
のように思い込むのは、決して学問に対する真摯の態度とはいえない。現にヘッケル
もドリュウスも、この種の状態を「科学的迷妄」 と呼んでいる。
即ち、科学的という言葉に重きを置いて、科学的といいさえすれば、それを絶対真
理のように早合点して、他に真理を求めようとしない誤りをいったのである。この言
葉こそは、かりにも人生に関することを研究するものには、それが哲学者であれ、宗
教家であれ、更に人生を対象として特に科学をその研究的生命とする医家や、物理学
者や、科学者に対しては、たしかに傾聴反省に値する頂門の一針であろう。
現に、前述の心に関するいわゆる科学的という考え方も、大いに考査する必要があ
る。というのは、科学的に心というものを見る時、それは大脳だというが、それは形
なき心=精神 というものを形而下の科学で説明するのには、勢い大脳を心と見なし
て論ずるの便法に拠らなければならないので、従って生物学者も公然これを「仮定
説」 といっている。