これは文字通り、自分以外の人に対する時の、自分の心の態度のことである。
多くいうまでもなく、人間である以上、山中にでも隠遁の孤独生活をしていない限
りは、絶えず自己以外の人と相接しまた交際する。がその時である。場合の如何をと
わず、また事情の如何をとわず、積極的の心を断じて崩さないように心がけることで
ある。即ち、どんなことがあっても、心の明るさと、朗らかさと、活き活きとした勇
ましさを失わないように、心がけるべきである。
そして、特に不健康の人や、悲運の人に接する際は、鼓舞、奨励以外の言葉は、口
にしないように注意することである。
世の中には、人の身の上話や、不運の話などを聞かされて、同情の極み、果てはそ
の人と一緒になって、悲しんだり泣いたり怒ったりする人がある。そして相手方の人
も、そういう人を、何か大変思いやりのある話の分かる人のようにさえ思う。
然しこれは、極めて皮相的な考え方で、そりゃ勿論同情ということは、人間の為さ
ねばならない当然の美徳ではある。が然しその美徳である同情の垣を超えて、相手方
の気持ちの中に引きずり込まれて、同じように、消極的な暗い気持ちにならなければ
ならないという、間違った義務が一体どこにあるであろうか? ましてそのために、
ただ一人の人生事実のために、一人ならず二人までが、消極的の気分になり、延いて
その周囲の雰囲気まで消極化してしまうという事実結果があるということを知ったな
ら、かりそめにも真理を人生の宝とするお互いなら、これこそ誠に大きい失策だと気
づく筈である。
だから勿論、不健康の人や薄幸の人々には、大いに同情すべきであるが、同時に真
の同情の発露として、適当な鼓舞と奨励とをその人々の心に与えてやり、少しでも、
その人々の心に積極的の暗示となるものを、心の糧として贈ってやることこそ、最も
尊厳な人間的行為である。