う意味で白露と言う。) 取り越し苦労厳禁
これは何れも取り越し苦労の無価値有害なことを、風刺訓戒したものでなくて何で
あろう! 取り越し苦労と同じ心理状態で、無駄な心配をすることを杞憂というの
は、何人も御存じのことと思う。これは昔中国に杞の国というのがあって、その国に
三人の、極端な取り越し苦労をする男があった。その一人は、朝から晩まで、一日中
心配そうに空のみを見て歩き回っている。またそのもう一人の方は、これまた一日中
心配そうに地面のみを凝視して歩き回っている。ところがまた他の一人は、その両人
の後ろから、心配顔で、両人の顔を代わる代わりに眺めつつ、歩いている。一体この
三人は何を考えていたのかというと、空のみ見ている男は、いつ何時この大空が上か
ら落ちて来やしないか、そしたらどうなるだろう? と心配になっているし、地面を
凝視して歩く男は、この大地が急にどかんと底知れぬ処に陥没したら、どうなるであ
ろう? と心配しているし、両人の後ろからついて歩いている男は、一体この二人の
男は、こうして朝から晩まで何もしないで心配して歩いているが、この男たちの行く
末は、しまいには、どうなることであろう? と心配していたというのである。そこ
でこれを杞の国の三憂といって、愚者の標本とした。それが略称されて、無駄な気苦
労を杞憂というに至ったのだそうである。何れにしても、取り越し苦労は、愚にもつ
かぬことで、かりにも心を研ぎ上げようとするものの為すべきことでないと、厳かに
自らに誓うべきである。そうかといって何事も考えるな、やりっ放しに放り出して置
けというのではない。消極的観念で考えることを断然止めて、考えねばならぬ場合
は、積極的観念で思索すべしというのである。
言い換えれば、積極観念で行われた思索は、概ね整然として、無駄なエネルギー消
耗を招来するような取り越し苦労にならないからである。