大寒という。)
大二節 真我不滅の要諦(生死の正念諦観)
前節に於いて真我=本当の自己、というものの本体が何であるかを説明した。
そこで次に特に正しい理解を必要とする事は、この真我というものに内在する力の
消息と、同時にこの真我というものが絶対不滅のものであるという二つの重要な事柄
である。
およそこの二つの事柄が、確実に吾人の人生信念となるならば、その人生観は期せ
ずして確固不抜のものとなり、人生如何なる難局に立つ場合と雖も、些かも逡巡忸怩
たる事無く悠然乎としてこれに対応する事を得るに至ることは必然である。
由来、凡人と真人とは、その外見においては些かの変りもない。否ある意味からす
れば凡人の方が真人よりも小才もあり利口そうに見える場合が多い。というのは、真
人はその心の使い方が凡人輩と異なり、小事些事に濫りに拘泥せず、人事世事にも敢
て神経過敏的に応接しない。そして毀誉褒貶をも大して意としないという状態が多い
から、何となく常識的でないかのように見える。
古語にも大賢は愚の如く、大人は小児の如しというのがあるが、何れもこれは悟道
を得た非凡人を評した言葉である。兎に角凡人と異なりその人生観が確古不抜である
から、如何なる場合にも、いわゆる「有事無事、常若無心」 という状態で経過す
る。それ故にこれを客観的に観察すれば、人事世事一切に対して宛然無関心であるか
のように見えるため、畢竟凡人輩の目にはそれが愚者のようにも見えまた小児のよう
にも映ずるのである。
が然し、一朝何事かがその人生に惹起した場合、凡人と真人とはっきりと著しい相
違を表現する。
即ち、病難に対しても、又運命難に対しても、凡人が心の平静を失って狼狙焦心す
る時、真人は寧ろ、平然としてこれに対応する。
というのも、蓋し前述したとおりその人生観が確固不抜であるからなのに起因す
る。しかもその根本基盤は真我の力とその不滅に対する信念というものが実に牢固と
して抜くべからざるものがあるためだという事を見逃す事は出来ない。