勿論この実行は当初の間は多少の困難を感ずる事であろう。就中身に病を持つと
か、心に悩みを持つ人には、特に鎮心上に一層の努力を要するかも知れないが、その
時決して無理に心の錯綜混乱を抑制しようと焦慮してはならない。即ちしばらくは心
の成りゆきに任せて悠々乎として心の秩序なき活動力の止むのを待つに如かずであ
る。時には奔馬ただならずというように始末に負えない程乱詠な状態で複雑多端に活
動するかも知れない。然したとえ心が如何に騒ごうとも些かもこれに懸念することな
く寧ろ平然たるべしである。そうすれば遂には心それ自身力尽きておのずから静止す
るに至る時が来るものなのである。無論最初の間は相当の時間を要するかも知れない
が、然し漸次実行の回数を重ねるにしたがい、遂には随時随所自由自在に心を鎮める
事が容易に出来るようになる。そしてこの実行を長期に亘って繰り返して実修してい
ると、いつかは真我の本体もハッキリと認識し得るようになる。そうなるともうしめ
たもので多年の間自己を苦しめたものは、自己の生命用具である心を真我の属性であ
る意志を以て正当に統御しなかったために、心が勝手気儘に秩序なく騒擾し、その上
常に肉体のために翻弄されて極度に動乱していたためだという事実を判然と自覚し、
進んで宇宙の大本体と真我との関係が分かり、同時に生命の力(Vril)と心との相関
関係も明瞭に了解し、結局真我と宇宙の絶対とは果然合同し得る崇高なものだという
人生哲理の真諦を確実に把握し得るに至る。
そしてこの最高自覚感が真に確立するようになれば、吾が心霊は低級境地を離れて
至上の妙境に向上する。そして何事に際会しても微動だにせぬという悟入大定に三昧
し得るいわゆる歓天喜地の彼岸境地に到達する。
が、かえすがえすも践行の効を見るに急なる勿れである。要は忍耐と不撓の努力と
で丹念に繰り返される正しい瞑想を行ずるにある。
そうすればいつかは諸君の感応を通じてその意識に手答えある震動は与えられ、や
がて来るべき自然の会得を拓く鍵を把握し得るは必然である。従って所詮は一意践行
の功を積む事に依って諸君の霊魂(真我) から諸君の一段高い心境への至妙の囁き
を待つ事のみである。
否こうする事に依り諸君の低級心界はよく払拭統一され、真我の燦たる霊光を遮ぎ
るものが除かれ、霊覚の眼を覚ます意識の黎明を現実に促し、真人としての基盤も牢
固として確立する。