然し、そうした手段で、心の動乱が処置出来るものなら、人生は頗る簡単だが、決
してそんな生易しいものでないのが人の心の動きではあるまいか。否、邪念を抱き不
正を思う心が、人生に良くない悪いことだということは充分に心得ていても、ともす
るといつしか心に邪念を抱き、不正を思う心が動くので困るのではないか。悪いか
ら、良くないからと、直ちに手の裏を返すようにこれを抑制したり禁止することが容
易に出来るものなら、人誰か煩悶に陥らんや、煩悩に苦しまんやである。またそれが
百歩を譲って出来得るとしても肉体を軽視没却した方法では、生命の全般のよく平衡
を確保することは到底望むべくもない。
この理由があるために、肉体本位の方法も、精神本位の方法も、ただその一方だけ
を重視したものでは、理屈はどうでも、肝心の人生解決の核心ともなるべき生命諸般
の力が、完全に充実しないから駄目であるというのである。即ち、どの点から論じて
も、心にも偏せず、肉体にも偏せざる、換言すれば、生命のそのままの姿である心身
一如に則った方法でなければ、到底所期の目的は達し得られない。またそうするに
は、前に述べた通り、心を心の道に、肉体を肉体の道に順従せしめた、心身を統一し
た活き方を行うのでなければ不可能である。