が然し、何れにしても心の統御を完全にするのには、この意志の力を任意に然も強
く、いつ何時にでも発現し得るように習性づけねばならない。そして先ず本能心を適
宜に統御し正当に善導し、ひいては理性心の開発を正しく行い、且つ又霊性心の発現
をも現実に助長しなければならない。
実際厳格にいえば、一切の心の働きは意志の力の発現する程度に即応していると
いってよいので即ち意志の力が強く発現すれば心の力もまた強く働き、意志の力の発
現が弱いと心の働きも弱くなる。
故に結論的にいえば、意志というものは心は勿論、人生の活きるためへの羅針盤と
いってよい最高の資格を人生に対してもっているものなのである。
もっと分かり易くいうならば、意志の力が現実に発現した時、初めて心に対し立派
な統率者命令者が出来た事になるがため、心が散漫な無統制の状態で働かなくなる。
言い換えると、心というものを意志が作った鋳型の中へ流し込んで、その鋳型の通
りに心を作り上げるに等しい。
一体人々の多くが吾が心を吾自身中々うまく自由に統御する事もまた働かせる事も
出来ずにいるのは、畢竟意志の力の発現を習性づけるという肝心な事に努力しないた
めで、心に何らの統率者も命令を与えるものもなく、ただ心の動くに任せて奔放散漫
にさせるからである。
俗に、意馬心猿、という言葉があるが、これも要するに意志という馬さえ完全であ
れば、心猿如何に我儘で勝手の場所に行きたくも、所詮は意馬の赴く所に従わずには
おられぬこととなる。
そこで幾度も言う通り意志の力を常住任意に自由自在に発現し得るよう習性づけな
いと、いざという肝心の場合に心を適当に善導する統率力が無になるために、心を完
全に操縦するどころでなく、かえって心の為に反対に翻弄され徒に煩悶や苦労を増加
して、犬や馬の幼稚な心の方がどれだけ良いか分からないと愚にもつかぬ嘆声を漏ら
さぬとも限らぬようにさえなる。
但し特に付言すべき事は、意志の力と強情という事を混同しては絶対に不可という
ことである。それは丁度図々しいのと大胆という事を同一視するのと些かも変わらぬ
大間違いであることを、よく知るべきである。図々しいとか強情というような心理作
用は本能心の中に存在する心なので、意志とは微塵も関連のないものである。